資料編纂室分室1(“解釈”の項目)    

高原英理 著《ゴシックハート》
2004年9/15発行 講談社刊

2 絵画・映像のゴシック耽美 − 建石修志、村上芳正、ウィトキン、シジスモンディ
 
では絵画や映像の表現ではどうなのだろう。たとえばラファエル前派や金子園義の絵画、ヴ
ィスコンティやタルコフスキー、デレク・ジャーマンの映画はいつ見ても耽美的だな、と思
う。これにはあまり異論はないだろう。
 かつて中井英夫氏とお話ししたことが何度かあるが、あるとき、中井氏は絵画に関してこん
なことを言われた。
「ぼくはね、どうも子供の描くような絵が苦手でね」
 子供の描く絵には「この世界への驚き」がよく表われている、という意見をともかく正しい
とすれば、それは川端康成にも通ずる、外部世界の素晴らしさの発見の報告として見るべきで
ある。そしてそういう見方にも私は敬意を表したい。価値があることは認めたい。
 だがやはりわれわれは(つまり中井氏も私も)耽美的なものへの執着と優先を忘れることが
できない。とりわけ中井英夫は生涯「この誤った世界には自分の居場所がない・自分の生きる
べき正しい世界は別にある」という確信を持っていた人だ。その小説は、いわゆるリアリズム
の作家以上に現実に起きた事件・出来事・偶然得た知見などを大量に取り込んで書かれている
が、すべて「この世界の素材を利用して反世界の正当性を示す」ものであって、ひとつとして
「この世界こそが主人である」という態度で書かれてはいない。
 だから、中井英夫は「この世界の在り様にひたすら見入る」視線を評価する基準を持たな
い。評価する基準を持たないとは好きになれないということだ。
 なお、確認はできなかったが、「子供の描くような絵」というのはおそらくミロや素朴画派
などの画風も含むものではないかと思う。つまり、細密なリアリズムによる絵でないと好きに
なれないということだろう。この場合のリアリズムとは、現実ならぬ人工的世界を構築するた
めに必要な技法をさす。これも聞くことはできなかったが抽象画も特に好んでおられたとは思
えない。
 そういう中井英夫が自著の装画の書き手として最も多くの場合選んだのが建石修志だった。
もともと装丁挿画には恵まれた作家で、野中ユリや司修などによる美しい著書が多くあるが、
やはり中井英夫の本と言えばまず建石修志、というのが多くの印象だろう。『とらんぷ譚』と
して後にまとめられた四部作、『月蝕領宣言』『黒鳥の囁き』『LA BATTEE(ラ・バテエ)』
『ケンタウロスの嘆き』、そして第二期の『中井英夫作品集』(全十巻別巻一)等々、とりわけ
晩年になるに従い、建石修志挿画もしくは装丁の著が増えてゆく。
 この画家は、初期には鉛筆による作品が多く、建築画にすぐれ、結晶・鉱物など堅いもの、
そして天使、天体等のいわば形而上的な題材を描くことを偏愛する。人体を描くさいも細密な
陰影と明確なフォルムによって曖昧さのない彫像のような物質感を与えるものが多く、ときに
骨がモティーフとなっている場合もある。おそらくはその硬質・明確好みのゆえだろう、女体
よりも男体を描くことの方が多い。最近はコラージユ風の技法に歯車やシャフトなどの金属部
品を用いたボックスアートをも制作している。
 硬質、細密、彫像を描くような、という画の特徴はちょうど渋澤龍彦が「幻想的な物語のリ
アリティーを保証する」とした「極度に人工的なスタイル」に通ずる。具象絵画で形而上的・
幻想的であろうとする場合の「スタイル」とはたとえば建石のような技法がその典型と言える
だろう。
 ゴシックな絵にはこのマニエリスティックなリアリズムの技法が不可欠だ。
 漉澤龍彦は絵画についても同様の意見を記していた。球体関節を用いた人形で有名なハン
ス・ベルメールはエロティックな銅版画でも知られるが、それについてのコメント。
とくにわたしを驚かせたのは、その銅版を腐食した線の、じつに繊細なクツチであった。
この画家もまた、エロティシズムとは繊細の精神であると心得ていた、あのサド侯爵の遠
い子孫なのであろう。
 装面を手がけることの多い画家でもう一人、極度にマニエリスティックな技法を示す人をあ
げておこう。村上芳正(村上昂)である。特に一九六〇年代から七〇年代にかけてのペン画に
よるこの人の仕事は稀に見る幻想的かつゴシックな暗い美しさに輝いている。細密といってこ
れ以上はないほどの、細い線と点描を駆使し、ありえない空間構成、花と男性の身体とが重ね
合うように描かれる華麗なそして暗黒の世界が展開している。
 私が何より思い出すのは先に引用した渋澤龍彦編の『暗黒のメルヘン』の装画だ。他にも倉
橋由美子『聖少女』、沼正三『家畜人ヤプー』限定版、三島由紀夫『豊饒の海』、ジユネ全集、
バタイユ著作集、等々、六〇年代に渋澤らが旗印とした異端、暗黒、そして耽美のサインとし
てこの画家の絵が用いられたかのようである。
 建石、村上の二者は技法の完璧さによって何を描いても耽美的となる画像作者の典型と言え
る。建石の荘厳な建築と身体、村上の暗くデカダンス漂う画面に惹かれないゴシック者はいま
い。なお最近ならば山本タカト描く美少年美少女がゴシック耽美の極みだ。・・・

■資料編纂係のコメント■

高原英理氏の本格ゴシック評論集《ゴシックハート》
ミルキーイソベ氏の凝ったブックデザインで刊行されました。
12の章で構成されていて、そのなかの「様式美」の章で建石に言及しています。
前半を抜粋しておきます。

雑誌《クロワッサン》2003年9/10号

建石修志の幻想的な空間は、
背景にアンクルが漂っていく“引きの世界”
(久世光彦さん)
 
建石修志(1949~)は、独月の幻想的な世界を、その卓越した描写カで
意欲的に描き続けている。画家としての領域に留まらず、
多くの作家の装画・挿画を手がける、いわば現代文学の伴走者である。
「建石くんの画風が好きなんです。以前から『幻想文学』の表紙で知ってましたが、
文学性を帯びているというか、
タイトルを決めてから措くのでは?
という印象がまずあって。西洋の宗教的歴史画を坊彿とさせつつ、
宗教性はそこにはまったく介在しない。
だからおもしろいと感じたんです」
 久世光彦さんが最初に装画・挿画を依頼したのは『陛下』(95年・新潮社)だった。
以後、『悪い夢』(95年・角川春樹事務所)、『一九三四年冬−乱歩』(96年・新潮社)、
『あべこべ』(02年・文藝春秋)など数多くのコラボレーションを展開している。
なかでも96年12月から98年1月まで『読売新開』夕刊に連載された『卑弥呼』には、
300点にも及ぶ鉛筆画が使われた。
「この作品は現代小説で、当時の普通の現代人を措いたもの。
今までの建石くんの作風とは違うので、.きっと描きにくかったと思いますよ。
登場人物のイメージを教えてほしいというので、
主人公の女性はキョンキョン(小泉今日子)で、男性はモックン(本木雅弘)                                                          と金城武をミックスした感じだと。かなり困惑してましたね(笑)。
そのせいかやたら猫ばっかり描いてくる。
だから『卑弥呼』のハードカバーでは、章が終わるごとに猫! 
まあ、具体的な人間の顔を描くのは不得手としても、
塑像や静物に関しては目をみはるものがありました」         
 今回の展覧会では、『卑弥呼』に掲載された作品も数点、展示される予定だ。
 久世さんは、このように結ぶ。
「彼の場合、カメラを人物の具体的な表情が見える距離からどんどん引いていく手法というか、
背景にアングルが漂っていく、“引きの世界”なんです。
だんだんと引きの光景になつていくバランスの妙を味わってほしいですね」

 

雑誌《月刊美術》1995年6月号
特集:今なぜ天使なのか?

 ギリシャ神話『イカロスの失墜』では、
父が作った精巧な翼を背に付け、
大空に飛び立つたイカロスが、言いつけを守らず、
太陽に近づきすぎたがために墜落してしまう。
この話は、倣れし若者を戒めるたとえとしてよく知られているが、
言い換えれば翼を持った少年の居場所は、高からず低からず、
天と地の中間こそ相応しいということになろう。
そして、その宙ぶらりんな状態こそ、
建石の幻想空間作品に描き出された天使のイメージなのである。
建石はいう。「形を持ち得ず、観念
で成り立っている少年の存在原理と、
浮遊する天使のイメージはどこかオーバーラップする」と。

雑誌《美術の窓》1996年12月号
特集:天使の美術

 建石が描く有翼の人物は、大抵が少年に翼の生えた像である。
画家によると、「少年の存在原理が、自然と天使のイメージに繋がっていった」のだという。
 天使そのものを描いたつもりはない、
そもそも「中間にあるもの」「宙ぶらりんな状態に在るもの」に興味がわくという画家は、
《少年》を「何かに移り変わる途中、
そこを通過しないと変わりようのない重要なポイント、
または変わっていくための鍵として存在するもの」と、
考えている。
 建石は《少年》をひとつの観念として捉え、
それを装置、あるいはメディウムとして現実世界と接触する。
少年の感性、感覚を通して、現実世界を眺め、あるイメージを抽出し、
一つの世界、宇宙に昇華させようとする。
 《少年》の存在が、画家にインスピレーションを与えると同時に、
次のステップを踏ませるための大事な役目を
果たすことになる。
 この少年の在り方は、天と地の中間にいて神のメッセージを伝える
天使の在り方に結びつき、不思議な重力を思わせるシュールな
有翼人物の像が生まれる。
 「現在はまだ、少年を通して見るべき世界がどんなものかわからない。
装置そのものをじっくり考えている最中」
なのだそうだが、今後使いこなした装置を通して、
画家がどのような世界を
展開させるのかが楽しみである。

文/水原紫苑
雑誌《太陽》1995年7月号
ART─美のプリズム

 石修志の作品に初めて出合ったのは、私の歌の師である
春日井建の歌集r青葦J(八四年)の中でだった.
塩の軸」「塩の街」(七七年)──力強いモノクロームで、
捨てて来た街を振り返って塩の柱となる男が描かれている。
装画として描かれたものではなく、個展で心を惹かれた作品を
春日井が望んで借りたのである。
 びやかな青年の肢体、殊に左右に引っばられた腕の筋肉、
塩に変えられてゆく苦しみを表わす指の表情、
そして塩となってしまった背中のたたえる愁い。
どれを取っても若さの悲しみがあふれていて、いかにも
初期の傑作にふさわしい。
 はこの作家についてもっと知りたかったが、同時に近寄りがたい
ような気がして、その他の作品を探すことなくひっそりと憧れていた.
余談になるが、
春日井建は「短歌」編集者時代の中井英夫に見出され、
三島由紀夫の知遇を得た歌人で、建石氏もまた中井、三島、澁澤龍彦
などに代表される華麗な美の世界の住人だと思うと、当時の私は
学生らしく気怯れしてそれ以上進むことができなかったのだ。
 まは気怯れしないのかと言えば、無論そんなことはない。
ただ、自分の短歌を活字にするようになってから、
確実に自意識の一部が欠け落ちたのを感じる。
逢いたい作品には逢えばいい、そんなふてぷてしさが身について、
何を見るのもためらわなくなってしまった

〈塩〉の日のShuji TATEISHIに逢はざりし心まぷしも 六月の雪
 
 回の個展は装鴨・装画に絞られている。
半数以上が油彩やテンペラによる色彩のある作品で、
克明なモノクロームの幻想性という彼のイメージからすると意外だったが、
二つの顔を比較できたのは楽しかった。
 まずモノクロームについては、その凄まじい描写力が、
どこか人間離れのした意識の集中を思わせる。
ちょうど、妖精が垣間見た人間世界のように、
髪のひとすじひとすじ、顔やからだの自然な輪郭が、
白昼夢の暗号となってサインを送るのだ。
 とえば「一九三四年冬─乱歩」昨年話題になった
久世光彦の小説に合わせたこの作品は、
登場人物の一人である中国人の美青年を描いている。
むしろ超現実性を抑えて描きこまれた青年の表情は、ほの暗く淀んで、
久世の小説のそのまた向こうにいる乱歩その人の夢の中の
リアリティを感じさせる。
単なる美音年嗜好でも同性愛そのものでもない、
どろりとした肉感をもつ〈乱歩〉のエネルギーが、
死後の世界から降り注がれているようだ。
しかし、青年は死者に応えることはない。

 ほほゑみの乱歩よきみは四肢無きに 水仙切りて火に投じたり

 彩の領域になると、端正な構図は変わらないが、
より幼年時代の夢に近いメカニックで遠心的な世界である.
高山宏の著書に組み合わせられた「痙攣する地献」は中でも印象深い.
格子状に穴をあけた、壁と見える画面上方の奥に回廊、右側には
幼い天使と切り取られた夜空、そLてその右上にテープで
止められた四本の羽根。左側には葡萄酒色の服を着た少年の肖像画、
下方には北国らしい針葉樹林が広がり、中央には機械仕掛けの一片の翼。
右の夜空には七つの重なり合う月が浮かぴ、
左の肖像画は扉めいた作りで、少年の顔半分に上からノブが付けられている。
 全体の基調色は、回廊とそこからなしくずLにつづく背景の
璧の暗い象牙色で、羽根、夜空、翼、針葉樹林の上空のすみれ色と、
肖像の葡萄酒色とがそれに対抗する。
空と翼のすみれ色は飛翔の色、開かずの扉の葡萄酒色は
成熟の色であろうか。
紫の青味と赤味の二つに引き裂かれた夢の視線は、
回廊の奥のおそらくは死の扉に吸いこまれようとLて、
針葉樹林の暗緑にとどめられる。
緑はまた天使の衣の色であり、そこから再び飛翔への誘いが始まり、
終わることのない色彩のドラマが繰り広げられるのだ。

 紫は灰さすものぞ生きてよも 明日まで空は孤りならじを

■資料編纂係のコメント■

主人は作品の展覧会を開きながら、書籍の装幀・装画・挿画などの仕事を数多くこなしております。
「書物の衣裳」展と題して、装幀のための原画だけを 展示しているのです。
水原氏のこの文章は、その展覧会の展評として、雑誌《太陽》に掲載されました。
水原氏は、さすが今をときめく新進の歌人、中井、春日井、寺山を引きながらの文章です。
画家としての側面とブックデザイナー・イラストレーターとしての側面を混然とさせながら、
日々制作している主人ですから、こうした評価そのものは大変嬉しいはずですが、
画家としての仕事がおろそかにならないようにと、欲張ったりもするのです。
不思議なもので、書物の仕事は締め切りが重なったりすることが屡々で、
3つ4つの仕事を並行して進めていることさえあり、カルチャーの講師も含めて、
頭が全くの混乱状態 に陥ってしまうようです。
刊行された時の満足感は解らなくはありませんが、
もう少しスケジュールをしっかりさせた方が、能率が上がるというものだと思います。
結局そのツケが全部こちらに回ってくるのですから、
どうぞよろしくお願いいたします。
資料編纂係 記 (11/24)


文/臼井捷治
雑誌《デザインの現場》2001年4月号
画家の仕事
偏見を打ち破るイメージの魅惑と思想の定着
ことばとイメージの空想世界を構築する───建石修志
      
 ・・・て、三人日の建石修志は前期のふたりより一回り以上若い一九四九年の東京都生まれ。
東京藝術大学でビジュアルデザインを専攻したが、就職せず、美術家として活動を持続。
個展や作品集をとおした作品発表のかたわら、求めに応じて
雑誌や新開連載小説の挿絵、書物の装釘、装画の仕事をこなしてきた。
 石独特の世界が脚光を浴びたのは、異端的な耽美ロマンの世界を描いて独自
の地歩を築き、また、寺山修司の歌人としての才能の発見者としても知られる
中井英夫との一九七二年の出会い。
筑摩書房編集者の紹介で当時描き続けていた
結するアリスたちの日々に」 の連作(一九七六年に深夜叢書社から作品集が出版された)
を持参したところ、中井は「何よりもルイス・キャロルの世界をみごとに
画家自身のものとして凝固させ得た凝視カにおどろいた」のだった(『イラストレーション』八号、一九八〇年)
 の出会いを契機に雑誌『太陽』(平凡社)連載の中井の連作小説「悪魔の骨牌」を
担当することになり、中井文学の内実と響きあいながら、それと括抗しえる文学
性あふれる堅固なイメージを硬質な鉛筆画によって構築し、以後、装幀と合わせ
て中井文学の最良の伴走者となっていく。
 の中井文学の装幀・装画では『悪夢の骨牌』(平凡社、−九七三年)、
蒼白者の行進』(筑摩書房、一九七六年)、『月蝕領宣言』(立風書房、l九七九年)、
中井英夫作品集』全十巻別巻一(三一書房、一九八六年)などがある。
中井が九三年に逝って七年後に復刊された、筆名「塔晶夫」で書かれた
しし 初期の大作『虚無への供物』(東京創元社、2000年)でも装幀・装画を受け持った。
なお、装幀では書体指定はもとより、版下づくりも自ら手を下している。
 石はやがて鉛筆画と並行して、油彩とテンペラによる混合技法、コラージユ、
函に収まるオブジェなど表現手法を拡大していく。こうしたなかで、超ジャンル
の知の異能の人である高山宏の幻想文学論集『痙攣する地款』(作品社、一九九五年)
や、その高山の監修のもとに刊行の始まった「研究社・リアクション叢書」の
第一弾、ジョン・ハーヴエイ著 『黒服』(研究社、一九九七年)、さらには赤江瀑や
皆川博子久世光彦の小説の挿絵及び装幀と多彩な活躍を繰り広げている。
筑摩書房の社内装を長く手がけていることで知られる中島かほると組んだ
ローレンス・ノーフォーク著『ジョン・ランプリエールの辞書』(東京創元社、二〇〇〇年)、
ロス・キング著『謎の蔵書票』(早川書房、同)など、話題を呼んだ伝奇ロマンや
ミステリーの印象深いカバー装画の仕事も忘れられない。
 ころで、建石は画家としての活動と装幀・挿絵等の活動との違いをどう認識
しているのだろうか?
「僕の中では画家とか、別のほうからイラストレーターとか呼ばれてもどちらで
もかまわないと思っている。イラストレーションでは、小説を読んで、そのこと
ばを媒介にしてイメージを汲みとって、ビジュアルな意味での作品としてつくっ
ていくことに尽きる。展覧会用の作品も、直接何かの小説をもとに描いていなくて
も、どこか文学的なイメージが強く自分のなかに入り込んでしまっています。本
の装幀の場合でも、本全体の世界を自分の解釈、感じ方でビジュアルに構築しな
おしていく
という点では構造的に違いがない。ただし、本というかたちに非常に
魅かれるところがあって、作品をつくるときとは違う心構えになっているとはいえますね」。
 このように建石は精細な筆致あるいは入念なオブジェの組み立てによって、
テキストをもとに独特の夢想世界をあたかも錬金術師のように自在に紡ぎだす。
そして建石の特徴はもうひとつ、異素材が妖しく交錯、積層するオブジェにより顕著だが、
ピブリオグラフィカル(書誌学的)な趣味との親和にある。
オブジェを使った『虚無への供物』や『謎の蔵書票』 の
装画が意匠美に満ちたもうひとつの「書物の王国」として、私たちを魅してやま
ない一因もそこにあるだろう。
オブジェはほとんど函に入ってしまうもの。
小説もどんなにストーリーが錯綜していてもひとつの世界として完結している。
そういう意味では、ことばでできた世界と函のなかに閉じ込められた世界はダブッていく
んだと思うんですね」。
 さにプツキッシユ(本好きな)なファンを満足させずにはおかないイメージの濃密さ。
余人の追随を許さない独自の世界がたしかにここにあるといってよいだろう。
 中村、村上、建石とその仕事をたどつてきたが、
三者三棟の多彩で多様なアプローチ。
デザイナーの装帳とは位相を異にするイメージの魅惑あるいは思想
の定着は、画家の装幀に対する偏見を是正する必要のあることを明らかにしては
いないだろうか。

■資料編纂係のコメント■
 臼井氏とは雑誌《季刊デザイン》での特集の時にお会いしているそうですから、
やはり、お付き合いもそろそろ27.8年になろうとしている訳です。
それほど頻繁にお会いしている訳ではないようですが、
どういうことか、臼井氏は主人の仕事を評価していて下さるようで、
個展は勿論、臼井氏の原稿の中でも幾度か主人を取り上げて頂いております。
感謝、深謝でございます。
嬉しいのは、ブックデザイナーとしての仕事に限って評価して頂いているのではなく、
画家、イラストレーターとしての仕事と関連づけた上で評価して下さることではないでしょうか。
1999年に刊行された《装幀時代》(晶文社)の中でも、戦後装幀家30人にリストアップして下さっています。
こういう方に評価されている以上、努々おろそかな仕事をして頂きたくない物です、
と、記してはみたのですが、今頃主人は猫を膝に抱えて、ヒゲでも引っ張っているか、
ソファーに横になりながら、いつの間にかうたた寝をしているに違いなく、
わたくしが心配しても仕様のないことか?いえいえ、これは私どもの給料に直結する話、
放っておける問題ではないのですわ。
もう少し覇気を見せて欲しい!と思ってしまうわたくしです。
資料編纂係 記(11/17)



文/高橋康也
「ノンセンス大全」(晶文社)より

1977年発行

の絵は「落下するアリス」と名づけられていた。
縦七十三センチ横三十七センチの鉛筆画である。
 上方には、優雅なお城の壁にはめこまれたロココ風の柱時計が措かれている。
折しも針は五時を指し、両脇の小さな扉が開いて、
馬にのった王様と王妃様の一行が文字盤のまわりをめぐつている最中である。
童話的気分を誘うこの時計の下に、じつに奇怪な、
しかし童話的といえなくもない光景が展開している。
ピノッキオめいた木作りの、ただし少女の人形が、逆しまに落下しっつあるのだ。
 九七三年の春、荻窪の画廊人魚館で、建石修志という未知の画家によるこの絵を見たときの、
鮮かでしかも恐ろしく複雑な印象を、私はいまでも忘れることができない。
のちに『アリスの絵本』(牧神社)に収められた図版を、私はいまだに繰り返し見つめながら、
その多義性を反窃してやまないのだ。
 いまいさはまず題名に隠されている。
「落下する」とはいいながら、画面は必ずしもそう単純ではないのである。
時計の下端からは四本の紐が垂れ下り、その一本を少女は右手でつかみ、
別の右足を絡ませているのだが、彼女は落ちまいとしてもがいているのだという当然の前提は、
見つめる者の内部でやがて崩れてゆく。
もしかしたら、彼女は片脚を紐に巻かれて引き上げられているところではないのか。
われわれの感じ取るのは、落ちてゆく急速なめまいであるよりも、
むしろ引きずり上げられる緩漫な息苦しさではないのか。
 苦しさが極まったとき、これは落下でも上昇でもない、静止なのだ、
という思いが閃き、そしてどうしようもなく定着する。
そう、少女は宙吊りにされたままなのであり、これは拷問─その最中で凍結した拷問なのである。
時計は、五時という彼女の受刑の時刻で停止している。
いや、おそらく、柱時計内部の歯車から垂れている紐に手足を絡ませた彼女の姿態は、
彼女の受けている刑が時間という刑にほかならぬことを示している。
それとも、時間の停止という刑、と言いなおすべきだろうか。
 間と時間をめぐる多義性は、もう一つの、エロティシズムにかかわるそれと重なりあっている。
さきに「木作りの人形」といったのは実は厳密ではなかったと白状しなければならない。
確かに、その手足は関節ごとに組み立てられた木細工と見えなくもないが、
その肩から腎部を含めての胴の部分はむしろ草の手ざわりを感じさせる。
ほっそりと長い指をした手にいたっては、どう見ても本物の人間の、
それも少女というより一人前の女性の手である。この指のおとなびた表情は、
胸のかすかなふくらみと相まって、頭部のいかにも少女めいた髪型や頼の線、
あるいは穿いている子供靴との奇妙な異和感をかもし出す。
 っさい、これは人形とも人間ともいえず、また少女とも一人前の女性ともいえず、
そのどちらでもあり、どちらでもないような姿である。そしてそのはざまから、
言いようもないたぐいのエロティシズムが放射されるのだ。
生身の肌を思わせてふっくらと膨んだ腎部は、大腿部の上部で、その木細工との裂け目を示し、
ために自が肌ではなく、中味を覆った草であることを露呈するのだが、
それによってある強烈な官能性を秘めた問いがわれわれの心をよぎる。
つまり、裂け目にほの見えた中味こそ、真の肌ではないのか。
言いかえれば、これは裸の女身に革を着させ、木製の(しかし本当に木製だろうか)
手甲脚貯めいた衣裳をつけさせた、まことにサド侯爵的な幻想ではないのか。
そう疑ったとき、紐の先に垂れている瓢箪のような形のものは、
まぎれもない男根の変形に見えてくるはずである。
 の絵を見たときの私の深い驚きは、しかし、絵そのものの絶妙な多義性のみに由来したのではない。
この絵をもう一つの文脈に置いたとき、私の感銘は決定的になったのである。
すなわち、拙い分析を試みたこの絵の空間的・時間的・性的な多義性は、なんと見事
にそのままルイス・キャロルにおけるアリスの多義性の表現となり得ていることか、という驚きである。
一人の作家の、当人自身さえ意識化しえなかったコンプレックスを、
時も所もへだたった一人の画家がどうしてこんなに明確に把握し、
こんなに完璧に視覚化することができたのか、という感歎である。
 こに措かれた少女人形は、まことに、兎穴を通って時間世界から落下してゆくアリスであり、
また物語の終りで再び時間世界へと引き戻されるアリスであり、
さらには気違い帽子星が代表する時間の停止した地下の不思議の国でさまざまな拷問にさらされ、
なぶられるアリスである。
これをキャロルの無意識に置きかえれば、愛する少女アリスを時間世界から隔離したいという願望
(ちなみに、停止した五時の針を鏡に映せば七時になり、七という数字は
ハソプチィ・ダンプティがアリスに言う「七歳で止まっていればいいのに」
という言葉を思い出させる)、あるいは隔離しょうとして果たし得
ぬ苦悩、さらにはその苦悩ゆえに彼女を時間刑に処さずにはおかぬ加虐欲望が、
その多義性のすべてをこめて、この少女人形の下降=上昇=宙吊りの姿態に具現していることになる。
 ャロルがみずからに課していた強い性的抑圧が、
アリスに対してきわめて屈折した様相を呈したことは、いまさら詳述の要もあるまい。
しかしその様相をたとえ千万言を費して分析しても、この一枚の鉛筆画には及ぶまい。
この画家の人形愛がかの作家の少女愛の構造を的確に看破したのであろうか。
憧憬と嫌悪の同時的対象である性的なものは、ここで少女の胸と腰の僅かなふくらみや指先に還元され、
さらにそれでも足りぬかのごとくに、少女の無垢の肌は草と木で覆いかくされて人形へと還元された。
しかし「隠すより露わる」、というか、人形や革はかえって何にもまして
エロティシズムをきわ立たせずにはおかないのだ。
あられもない恰好に静止させられた少女の、股間と陰部と腰と胸の位置をそれぞれかすめて垂れさ
がる四つの男根象徴は、
一生を童貞で過したキャロルの欲望をほとんど面映ゆいほどあからさまに語っている・・・。
 の後、この作品を含めた妖しい人形たちの絵が、「凍結するアリスたちの日々」の名のもとに、
銀座のギャラリー長谷で展覧されたとき、私は裏切られなかった。
それが人形という無垢なるものの美しくも残酷な受苦の絵巻であることを、
私は確認したのである。
そして官能の対蹠点にあるはずの生命なき人形たちに、
このような受苦が必然だと思わせるほどに不可解ななまめかしさを帯びさせているものが、
鉛筆という生命なきマチエールに不可解ななまめかしさを与えているものと同じであること
 −つまり、建石修志という名をもつ画家の魂の稀有の無垢と、
その感覚の妖美なエロティシズムと、その手の奇蹟的メチエであることを。

■■■■資料編纂係のコメント■■■■
今年矢川さんが亡くなって、暫くしてから「高橋康也氏死去」を新聞の訃報欄で知りました。
主人は何回かお会いする機会があったということでした。心よりご冥福をお祈りいたします。
この高橋氏の文章は 、深夜叢書社刊画集「凍結するアリスたちの日々に」の中で、
執筆して頂いたものだそうです。初めての個展、初めての画集、初めてづくしの中で、
これほどの賛辞を受けたご主人は、やっぱりその当時、少しは注目されていたのかも知れませんねぇー。
この文章を頂いて、逆に「ここまで深読みしてくれる解釈というものがあるのかー」と驚いたそうです。
二回目の個展「変形譚」の時にはDMに文章も頂いたということでしたが、
「アリス」から「 変身」への展開を“ロマンティシズム”なのかと尋ねられ、
シドロモドロになってしまって、大変恥ずかしかったと、当時まだ20歳代の自分を
懐かしそうに想いだしていました。
懐かしがっている場合か!とわたくし、思ってしまうのですが、
歳も歳だし、お知り合いが少しづつ他界する現実を考えれば、
何物か胸に去来することもあるはずで、ここは何も申さずに置きましょうか。
資料編纂係 記(11/02)



文/中井英夫
《イラストレーション1980年AUTUMN

“作家とイラストレーション”

 のごろ建石修志が本当に存在しているかどうか、疑わしくなってきた。
むろんもう30数回になる「週刊読書人」の連載エッセイではイラストを担当してもらっている。
さぞ描きにくいだろうなと思う内容のときでも、
毎週きちんと独自の風格の鉛筆画を寄せてくれているから、いることはいるのだろう。
しかしもう何か月も会っていないし、電話をしてもいたためしがない。
この文章を書くために近況を聞いておこうと思ったのだが、さっぱり連絡のとれないまま、ままよと思い返した。
不在の建石修志論というのもおもしろい。
人物像が鮮明に浮きあがらぬとしたら、それはもっぱら彼の責任ということにして話を進めるとしよう。

 初めて会ったのは8年前、昭和47年のことで、筑摩書房の祝部陸大氏の紹介だった。
何でも前年に芸大を卒業して、友人たちはそれぞれ職を見つけたが、
勤めを拒否して絵ひとすじを志したものの生活が苦しく、
筑摩の知人のところへカットにでも使ってもらえないかと絵を持ち込んだ。
しかしそこでも差し当たって予定が立たず、
回り回って祝部氏から「とてもすばらしい絵だから見てくれ」という話になったのである。
暑い盛りの8月16日、新宿のプチモンドで──まだいまのように編集者と作家の打ち合せ場所のなっていず、
すいていたそこで会うことにしたが、初対面の印象は甚だ芳しからぬものだった。
緊張して突張っていたのだろうが、似合ない髭を生やしサングラスか何かをかけ、
若いくせに勿体ぶった口のききようをする小男という見かけで失望したが、
取り出した絵を見せられて思わず唸った。
凍結するアリスたちの日々に』の連作で、
その漆黒の輝き、人形のアリスの無残さ、細部の丹念さ、
そして何よりもルイス・キャロルの世界をみごとに画家自身のものとして凝固させ得た凝視力におどろいたものの、いますぐこれをどうしたらいいか判らない。

 こで友人の経営する新宿三丁目のバアには、画家も画商もよく顔を見せるから、
そこでしばらく展示したらどうかと提案し、何点かがその“ばらーど”に飾られた。
建石修志の作品が一般の眼に触れた、これが最初である。
当然のようにその絵は多くの賞讃に包まれ、翌年5月には銀座のギャラリー長谷で個展が開かれる運びとなるが、
折柄ひそかなアリスブームだったこともその登場に幸いした。
銀座に先駆けて荻窪の画廊人魚館で開かれたアリス展にも
連作のうちの一点『落下するアリスもしくは五時の行進』が揚げられ、
のちに深夜業書社から出た画集には、高橋康也、寺山修司の両氏がそのときのおどろきを記している。
話は前後するけれども、最初に会ってから間もない10月を第1回の〆切とし、
平凡社の雑誌「太陽」に私は『幻想博物館』に続く連作小説、
悪夢の骨牌』を1年間連載することになっていた。
そのイラストを著名な画家に頼むと、来年春まではどうしても手の放せない仕事があるので、
3月号まで誰かに描いてもらってくれという返事だった。
それで私は編集部に、建石君というすばらしい才能の若い人がいるけれどどうだろうと、遠慮がちに話してみた。
初めは危ぶんでいた編集部もたちまち魅せられ、
3か月といわずずっと彼で通しましょうということになり、読者の評判も上々なので、
先に出た単行本の『幻想博物館』も、建石修志の装幀装画に改めて出し直したほどである。
6月からは筑摩書房で雑誌「終末から」が創刊され、長篇『蒼白者の行進』を連載したが、
編集者が祝部氏なので、イラストは当然建石となり、この出来栄えもみごとなものだった。
それにしても残念なのは『落下するアリスもしくは…』を所有していないことで、
これはギャラリー長谷のときいち早く予約しておいたのだが、
座右宝刊行会の社長が見えてどうしても欲しいというので涙をのんだ。
昨年2月、原宿のギャラリー悦で行われた『とらんぷ譚』全イラスト展でもそうだが、
売行き好調なのは嬉しいが、
大事な連作がすべて散り散りになってしまったのは、返す返すも遺憾という他はない。
いま私の手許にあるのは『ヨカナ−ンの夜』『緑の唇』『鏡に棲む男』の3点だけである。
所有者のリストもおそらく出来ていないだろうが、
ギャラリー悦のとき原画に添えた小さなトランプはイタリー製で私の提供なので、
お持ちの方はどうか御大切にと祈り上げる次第である。

 ころで最初の悪印象は、性質を知るにつれたちまち雲霧飛散して、
経歴には必ず射手座の生まれと記し、
バアにキープするボトルには“工房・六月の王国”と書くのをほほえましく眺めるようになった。
ド近眼なので眼鏡をかけていないとき酔っ払うと、
新宿の人混みを「どいた、どいた、どいた」と両手を突き出してうろつき回り、
そのせいか撲られて血まみれで倒れていたことがある。
ただしよほどの手だれの仕業と見え、翌日会うと顔じゅう腫れ上がっていたが傷ひとつ残っていなかった。
本気でやられたらあの細い躯だ、全身骨折ぐらいでは済まなかっただろう。
偕子夫人(呼び名はトモマル)と結婚したのはいつだったろうか、
このとき私を初め友人一同大失敗ないし大失敬をした。
これもその愛すべき性質を知らなかったからで、自宅で行われた披露宴に呼ばれた席上、
皆はくちぐちに、早まった結婚などなさって必ず後悔しますぞと脅迫したのである。
それがいまでは息子の嫁さんのような気がしているのだからいい気なものだ。
私の山小屋にもう6年ほど棲みついている冬眠鼠と、
いつもプレイボーイののマークのシャツを着ている助手の青年とこの偕子夫人は気違いお茶会には欠かせない。
なぜって彼女の本職は帽子屋なのだから。
なおこのときの披露宴では、36種類もの本格的な中華料理が次々と出されたのには一驚した。
彼の姉上は料理の天才なのである。
父君が作家の■■■■■氏であることも、だいぶ後になって知った。

 ──、ここまで書いてきて、またそろそろ不安になった。
一度も訴いたことはないが、建石修志ってしし本名なのだろうかという疑いが兆したからである。
本名だとしたら、ちょっとカッコ良すぎはしないか。
それに何か月も連絡してこないのは、
連載エッセイに不満で腹を立てているというより、
温厚な彼は8年めになってようやく私の悪印象を許しがたく思い始めたのではあるまいかと、
小心者の私めは、おろおろと立ったり座ったりしながら、
いまようやくこれを書き終えた。


/建石修志
《イラストレーション1980年
AUTUMN
“作家とイラストレーション ”


 確には8年前の8月のまだまだ暑い昼日中だった。
よく冷えたアイスコーヒーが、ストローを通して胃の腑の中に入り込んでも、ちっとも快くないまま、
未だ見たことのない恐し気な人を今か今かと待っていたのは。
私は大学を卒業したものの、就職もせずに、又する仕事とてないままに、
親のスネをかじりながらその日その日を絵を描き、酒を飲み、と勝手気儘に遊び暮らしていたわけだが、
何とも居心地悪く、それに素直かつ単純に絵を描く仕事をしてみたいと思っていたのだった。
まだ学生の頃にたまたま知り合った筑摩書房のA氏に、
当時描き続けていた“アリス達”の連作の写真を同封し、
何か私に出来る様な仕事はないものだろうかと手紙を出したのだが、
A氏がH氏に、H氏が或る作家にと写真がまわり、とうとうその作家と会うことになったのである。

 の作家が中井英夫氏である。
「中井英夫」という名前は、雑誌「太陽」での幻想博物館の連載の内、2篇だけは読んでいたのと、
三一書房から出版されていた「中井英夫作品集」を書店の棚の上に目にしていたぐらいで、
全くの未知の人であった。当然、水晶の塔の様な塔晶夫などという名前は知る由もない。
H氏からの電話で中井英夫氏とお会いすることが決まった途端、
果して中井英夫なる人物はいかなる怪物なのかと急に不安に襲われ、
すぐに書店に駆けつけ、「中井英夫作品集」を手にし、立ち読みしたのだった。
それも折込みのパンフレットを。
そのパンフレットには、薔薇を前景に、眼鏡をかけたその人が頬骨も高く、
何とも神経質そうに気難しいといった感じで載っていたのだった。
決して美しいという印象はなかった。
(後に戦中日記「彼方より」の口絵写真を見て、
「コレガ、アノ…」と思う程に美しい長髪の凛々しい?青年だったらしいのだが)実際に顔を見合わせてみて、
おお、厳格なる数学よ!」という感じなのだが、語り口がとても優しかった様に記憶している。
私の方はと言えば、緊張のし続けで、
(といっても、元来の童顔を黒ぶち眼鏡でごまかし、多少でもツッパろうとしていたのだが…)
何点かのアリス達の連作をお見せし、言葉もあまり交わさぬうちに、早々にお別れしたのだった。

 うして雑誌「太陽」での「悪夢の骨牌」に始まる仕事が現在まで至るわけだが、
雑誌の性質上グラフィカルな面が強く、私の最初の仕事としては申し分のない恵まれた仕事であった。
私はそれ迄に小説に対してのイラストレーションというような型の仕事はもちろん初めてであったばかりか、
自分自身の作品の数とて指で数えられるぐらいの、絵を描く半熟卵であったわけで、
文章に対してのイラストレ−ションがいかにあるべきかなどと明確な理解などなく、
正直、皆目解らないというところだった。
中井さんはその連載第一回目「水仙の眠り」の原稿を渡しながら、
「描きにくいとは思うけれど、あなたの好きな様に描いて下さい」と優しく言われるのである。
私としては、挿画を描くという仕事に関しては全く無知であったが、
少なくとも当時の週刊誌、新聞紙上で目にしていた、
いわゆる挿画の様な型では絶対に描くまい(というより描けなかったわけだが─)とは考えていたので、
中井さんの言葉にホッとし、又、これはかなり慎重に行かないと大変だと内心不安でもあったのである。
後で中井さんから聞いたところによると、
連載の3回目迄は私に描かせて、
あまり良くなければ、それ以降は別の画かきにと考えていたのだということだが、
今迄続けてきたところをみると、
最初の「水仙の眠り」のイラストレーションは少しは気に入ってくれた様である。
これを最初のカードとして、「人外境通信」「真珠母の匣」「新版幻想博物館」「蒼白者の行進」と続くのだが、
基本的にイラストレーションをどの様に描くかという方法論は、
一回目の時に感じ、考えたことと全く変わりなく、進歩もなく描き続けてきたわけである。
原稿を読み、構造を見極め、時間の軸を探し出し、空間に封印する。
その構造の中から描き出すモチーフを嗅ぎ分け、選び出し、
それからそれらのモチーフをどの様に組み立てるか、
説明としてのみ終わってしまうことのない確たる一枚の絵としてどの様に屹立させるか
文章によって構築される凸型としての迷宮、絵によって構築される凹型の迷宮
二つの型がピッタリと抱合すること。
この地点にしか小説に対するイラストレーションの意味はない様に思える。
父である文章と、母であるイラストレーションではなく、
兄である文章、弟であるイラストレーションというものでもなく、
2つの肉体が、どこかつなぎ合わされたシャム双生児として、世界を構造することが出来れば、
小説にとって、イラストレーションとは欠くべからざる半身の自分であり、
イラストレーションにとって小説も又同じこととなるだろう。
そうでない限り、イラストレーションは常に文章に鎖されつつ、
その鏡の軌跡を挿画という型で後に残すことしか出来ないのだから。
ただ、主人を追う犬の軌跡のように美しく描くことが可能な地点もあるにはあるのだろうが…。
と格好をつけてみたものの、現実にはしどろもどろ、冷汗のかきっ放し、
中井さん曰く「よくまぁーこんなひどい絵を描いてくれたネェー」と酷評されること数知れずなのである。

 めて中井さんとお会いすることになった時に、
慌てて書店に駆け込み立ち読みしたパンフレットの中に、
澁澤龍彦氏の文章が寄せられていて、その文章の冒頭に、
吉行淳之介氏が中井さんを、「狷介にして心やさしき人物」と評していたとの件があり、
その吉行氏の評はしばらくお付き合いするうちに幾度か実感することになったのである。
もっとも、かの「虚無への供物」を一読すれば、
「狷介にして…」ということは、その仕事ぶりからして明らかなのではあるが、
現実の付き合いにしても、「おまえとなんか絶対に仕事はしない。」とか
「こんな絵を描いて俺を甘く見ているのか。」とか散々なのである。
しかし一方「心優しき…」の方でも、「あなたは画描きであってイラストレータ−ではないのだから、
俺との仕事なんか適当にして自分の仕事をちゃんとやらなくてはダメだ。」と、
つまらない仕事でも依頼があればすぐに引受けてしまう私をハッと覚醒させてくれるのである。
それに何回かの個展の際にも、「今回はあの人に文章を描いて貰えばいいな。」とか
「あの人に案内状は出した?」と気の利かない私に変わって細かく気を配って下さるのである。
かつて塚本邦雄氏、寺山修司氏等を世に出した名編集者であったことからすれば、
私に少しでも良い仕事をさせようという元編集人としての名残りだけかもしれないが、
私にとっては、父親ほどにも年の隔たった、「おお、厳格なる数学よー」といった顔つきをした中井さんの、
「狷介にして」と「心優しき」のごちゃ混ぜの中に居られることは、
何とも楽しく、又何とも幸せなことなのである。

 つか又、8年前の昼日中の様に、掌にうっすらと汗をかいて、
その汗の中に未だ見ぬ幻の虚無への供物第二部を持ち、
緊張した面持ちで中井さんを待っている日が来るだろうか。

■■■■資料編纂係のコメント■■■■
雑誌「イラストレーション」は今では月刊になっていますが、この時点では年に4回の季刊であったようです。
“作家とイラストレーション”という連載のページがあって、作家と絵描きがコンビで仕事をしている様子をお互いが書き合うといったもののようです。やっと雑誌のバックナンバーを見つけましたので、ここに紹介いたします。
こういう企画ものというのも本人にとっては結構書き辛いんじゃないでしょうか。
やっぱりお互いに悪印象だったようで、といっても主人の方はかなりの緊張だったようで、
新宿のプチモンドでの情景が、眼に浮かびます(笑)。
主人にとって所謂「持ち込み」は初めてだったわけですから、
これで仕事が始まったというのは何という幸運でしょうか。
現在の持ち込み状態は大変なもので、月に何百と持ち込みがある編集部もあるとききます。
当時の状況は、若いわたくしには想像するしかありませんが、
主人はシュルレアリスムや、所謂幻想絵画に ドップリ漬かっていたと聞きますから、
編集氏が中井英夫氏を紹介したのも頷ける話ですが、やっぱり何だか時代を感じさせますねぇー。

ところで主人の文中に「・・・イラストレーターではないのだから・・・」云々と在りますが、
これが原因で、雑誌「イラストレーション」は冷たい応対になってしまったそうです。
ここにきてやっと“イラストレーション・ファイル”に誘われて、不思議な心持ちだそうです。
画家とイラストレーターという論議も昔からたびたび繰り返されているようですが、
主人の立場は以前からそう変わっているとは聞いてません。
何だか作品もイラストレーションも、文学っぽくて、わたくしには同じみたいに見えます。
メディアが違うだけじゃないでしょうか。
まぁー、わたくしにはどっちでも構わないわけで、
ちゃんと月給を払って頂ければ、文句は言いませんので・・・。(溜息)
資料編纂係 記(10/29)


文/久世光彦
小説新潮1995年?月号


「・・・第七回の〈山本周五郎賞〉をいただいて、
私の「1934年冬─乱歩」の冒頭の部分が本誌の先月号に抄録された。
最初のページの見開き二面にわたって、アール・ヌ−ヴォ風の鏡面に映った美青年の絵が描かれてある。
作中に出てくる翁華栄という中国の青年である。
背景の木造の階段は、乱歩が隠れていた麻布〈張ホテル〉の202号室に通じる階段だろう。
廊下に人影はなく、突き当たりのガラス窓から白い冬の日がわずかに射し込んでいる。
このホテルのボーイである華栄青年は、やわらかな富士絹のワイシャツに、小さめな蝶タイをつけ、
心持ち首を傾げて鋭くも蠱惑的な目でこっちを見ている。
美青年好きの乱歩の胸がざわめきそうな目の色である。
── 私の中にも、胸を浸し、やがて夜半の満ち潮のように私の中に広がっていった。
仄暗い、けれど熱い喜びだった。
私は、私の「1934年冬─乱歩」が、はじめて、ゆっくりと身を起こして立ち上がるのを見たように思った。
絵の力である。そして私は、はじめて翁華栄青年に逢ったとも思った。
私の華栄は、こんな顔をしていたのだ
中国の柳のように細身で、鼻筋がきれいに通り、一つ間違うと酷薄に見える薄い唇は女のように紅く、
その隙間から覗く白い歯は陶器のように冴え冴えと輝いている。
確かに私は文中でそう書いたのだが、この絵の華栄青年は、私が書いたより、もっと華栄だったのである
それは私でさえ書けなかった、ある種の邪悪さだった
乱歩がいっしょに地獄へ堕ちてもいいと迷ったのは、この邪悪の美しさだったのだ。
この人に挿絵を頼んで良かったと私は思った。
かねてから、中井英夫氏の本の装丁や、「幻想文学」のイラストなどで見て好きだった、
建石修志さんが描いてくれた挿絵だった。
そして私は、嬉しさのあまりこんなことまで考えた。
この小説は、作者自身も知らないうちに、建石修志さんのために書かれたのではなかろうか。
「1934年冬─乱歩」が「青春と読書」誌に連載されたとき、
毎号カット絵を書いてくださったのは落田洋子さんだった。
幻想的な童画のようで、人物たちがどれも西洋の木偶人形のようで、
構図が玩具箱の中を俯瞰の目で見たようで、これも私は大好きだったのだが、
落田さんのはあくまでもカット絵であって、挿絵ではなかった。
ところが建石さんは、
まるで私がとり憑かれていた「真珠郎」のヨカナ−ンの首を知っているみたいに描いてくれたのである。
私は建石さんの絵を横目で見ながら、
他の誰かが書いた乱歩の物語を読むように、ときめいて自分の小説を読んだのだった。
もう、一冊の本になってしまったものだけれど、
「小説新潮」があらためて毎号建石さんの挿絵付きで、
この小説を連載させてくれないものかと、私は真面目に考えた。
それがいまに、絵本のような形で上梓し直されたら、私はどんなに幸福なことだろう。
日当たりの悪い女中部屋で本の虫だったころから、
私には挿絵抜きの小説というものは、考えられないのかもしれない。・・・」

「・・・しかし、先月号の本誌で「1934年冬─乱歩」を読んでくれた人は、
きっと建石修志の絵を忘れないだろう。
華栄青年の、桃の花のように美しく、毒蝶のように邪悪な横顔を、その夜の夢に見るかもしれない。
そういうこともあるのだ。
だから私は、この先の私の小説に、かならず建石さんの挿絵をお願いしようと思っている。
そう考えると、作者の方がときめいてくるのである。
そしてこのことは、建石さんの絵が力不足の私の文章を助けてくれるだけでなく、
小説を面白く読んでもらうための、古くて新しい、一つの方法ではないかと思うのだ。
挿絵の幸せは、そのまま小説の幸せである。・・・」
文/久世光彦
産経新聞1995年 ?月?日夕刊

「─乱歩」の挿絵

山本周五郎賞をいただいたので、
七月号の『1934年冬─乱歩』が抄録されることになり、
その際にイラストあるいは挿絵はどうしようかという話になって、
私は躊躇なく建石修志さんの名前を挙げさせてもらった。
亡くなった中井英夫さんの本の装丁など見ていて、かねてから好きだったのである。
できてきた絵を見て、私はびっくりした。
作中の〈翁華栄〉という中国の色っぽい美青年のボーイの顔を、はじめて作者が知ったのである。
柳のように細身で、肌が新月みたいな冴えた光を放ち、
濡れた唇の隙間から覗く白い歯が陶器のようで、隠微に美しいくせにどこか明るいユーモアがあり、
ユーモアの間に邪悪の匂いがするという、厄介な人物がいとも簡単に描かれているのである。
この人は、作者の私よりも〈翁華栄〉を知っている。
私自身は、なんとなくジョン・ローン本木雅弘との複合体をイメージしていたのだが、
建石さんの〈翁華栄〉は、その条件をちゃんと満たしながら、
建石さんがずっと描きつづけてきた、ある種アンドロギュノスめいた少年の顔をしていた。
つまり、そこには私の作品のイメージを描きながら、完全に建石修志の世界があるのだった。
当たり前と言えばそれまでだが、ここまで作者がびっくりすることは、そんなにないのではないか。
私はこの絵でもって、私の拙い小説が倍の力を持ったように思った。
こういう形で、つまり建石さんの絵をふんだんにのせて、
「小説新潮」がもう一度『1934年─乱歩』を連載させてくれたらどんなに嬉しいだろうとも思った。
少なくとも、大衆小説にとって、このような挿絵はもっとあっていいのではなかろうか。
それは作者にとっても、読者にとっても嬉しいことだと思うのだ。
昔、私たちが子供のころ、毎月の雑誌の小説を読む愉しみは、
文章とおなじくらい、絵を見ることにもあったことを、私は思い出していた。

■■■■資料編纂係のコメント■■■■

久世光彦氏とのお仕事は、久世氏の文章にあるとおりです。
これを契機に様々な仕事でコンビを組むことになってゆくわけです。
主人も雑誌“BRUTUS ”に連載されていた「昭和幻燈館」、“太陽”に連載されていた「花迷宮」を
毎号楽しみにしながら読んでいたと言うことですから、一緒に仕事が出来るのを とても喜んだそうです。
「陛下」、「逃げ水半次無用帖」、「あべこべ」などの雑誌連載をはじめ、単行本、文庫の装画など多数にのぼります。
しかし何といつても読売新聞の夕刊の連載小説「卑弥呼」はお二人とも初体験で、先日もとある会でお会いした時に、
「またやりたいなぁー」と話されたとのこと、わたくし期待しております。
でもここのところ、久世さんは小説をあまり書かれていないようで、ちょっと寂しいです。
「胃に穴があいても仕事はするぞー」と主人は叫んでおりますが、
いざ始まったりしたら、また胃カメラ飲むんでしょうね。(失笑)
資料編纂係 記 (10/7)

文/高山宏
Do Book1995年 7月号

 
建石修志氏の装幀
ァンタジー文学ファン必携をうたう雑誌に東雅夫氏が大健闘している『幻想文学』があって、そろそろ五十号目に手が届こうかというその表紙がずっと建石修志さんである。
大幻想作家中井英夫の本の豪奢な装本家としてあこがれていた。
『幻想文学』は中井英夫をも大いにプッシュした雑誌だし、この雑誌に淫していたぼくなど、ほとんどサブリミナルに建石ビジュアルを刷りこまれていたのではないか。
し風変りな幻想文学論を何冊か出そうと決めた時、
建石さんしかいないという声が脳のどこかで響いたのも、きっとそのためだ。
らばらなオブジェの関係が見る側を謎解きの快楽に駆るここ何年かの氏の作風が、
まさしくばらばらな観念を散りばめて、その関係を読者ひとりひとりに追ってもらおうと目論むぼくの本と重なり合うと直感したためだ。
そういう知的謎解きの快楽をマニエリスムと呼ぶなら、
装本・装画の世界も建石修志とともにマニエリスムの時代に入った

 
■■■■資料編纂係のコメント■■■■
高山宏氏との関係は、それほど長くはないように思えます。
1990年の「週刊読書人」にアリス本についての高山氏の評論があり、
その末尾に「・・・建石修志の表紙、相変わらず良い。建石挿絵のアリス豪華本がみたいと思った・・・」と締めくくられていて、うれしくなった主人がお礼の手紙を差し上げてからだという話です。
高山氏の著書の装幀はまだ4冊を数える程のようですが、監修、翻訳本が他にも何冊かあります。

高山氏と主人とはほとんど同時代人であって、また興味の領域も重なるところが多く (勿論英文学者絵描きでは大きな違いがありますが)、その機関銃のような語り口、ルーペで見なければならない文面、止まることを知らない知識の横溢と連鎖、ビジュアルに対する飽くなき好奇心、とにかく桁外れの文学者のようです。
しかし、主人ときたら勉強しないからなぁー。ま、人のことは言えないけど・・・。
資料編纂係 記(9/30)




文/中山幹雄
TOKYO TIMES 
1990年6/4〜6/7
 
漆黒のアルチザン

石修志の絵との出会いは、同時にエンピツとの出会いでもあった。幼稚園に入る前から、家の柱に、壁に、襖に、あらゆる紙に……いたるところに書きちらしたという。以来、建石少年は、エンピツの香りとともに、その軽やかで鉱物的な魅力にとりつかれていったのである。

がて、 エンピツ少年・建石修志は成人して、イラストや装幀の仕事をはじめるが、決っしてエンピツをその手から離すことはなかった。彼は自分にとってのエンピツ画をこう語る──「華やかな色彩の饗宴もなく、ただ無彩であることの禁欲、漆黒の強靱な力と妖しい諧調だけで黙々と画面をつくっていく秘やかな悦び」であると──そうした建石修志は、技法への偏執へと向かわざるをえなかった。その時、彼の手の“技(わざ)”への追求は、止まるところを知らない螺旋階段のようなものになっていったのである。

は、エンピツ画への思いを、こうも語る──「あえて、“アルチザン”でありたいと憧れさえするのだ。真っ黒なアルチザンに。」と──「落下するアリスもしくは五時の行進」は、漆黒のアルチザン・建石 修志が最初に手がけた連作『凍結するアリスたちの日々に』のうちの一点である。芸大在学中に始まったこの連作は、アリスを人形化することに よって、物として描いている。また、卒業製作とした『凍結するアリスたちの日々に』は、サロン・ド・プランタン賞を受賞し、芸大に買いとられている。

-----------------------

螺旋状の苦悩を舞う鉛筆王

大を卒業して間もなく、 建石修志に大きな仕事が舞いこむ。雑誌「太陽」で連載の中井英夫の幻想小説に、エンピツ画によるイラストを長期に渡 って描くことになるのである。

中井英夫は、もとは雑誌「短歌」の編集長で、塚本邦雄、寺山修司ら前衛歌人の発掘者でもあった。若い人を育てる名人の中井のアドバイスに、建石修志も大いにプラスになったことであろう。そして中井の多くの著書を建石修志は装幀してゆくことになるのである。

の装幀や挿画の仕事を通して、建石修志は、数多くの文芸家と知り合うようになる──澁澤龍彦、寺山修司、相澤啓三、澁澤孝輔、荒俣宏……こうした交遊の中で、建石修志は、寺山修司から“鉛筆王”と名づけられている。そして、その輪はさらに演劇や暗黒舞踏、オペラの世界へと拡がっていった。しかし、ジャンル的には、それらの仕事は、マイナーな幻想文学の世界に限定され、幅が広がって行かないことを、建石修志は、しっかりと自覚している。ものを見すえる画家の醒めた眼はさすがである。

からこそ彼は、毎回の個展に、テーマを決めて、自己の絵の世界を表現し続けていったのである。’73年の「アリス」の連作、’74年の「変形譚」シリーズを経て、’76年に“E・A・ポー へのオマージュ展”(永井画廊)へ出品された連作の中の一点が「螺旋軸」であった。その製作の時に、彼の頭の中にあったものは、「“螺旋”という言葉が虚空に生まれ、そこにポーの作品が渾然一体となって“軸”という光が生まれた」という。“軸”とは、まだ見つかっていなかった建石自身の方向であり、“螺旋”とは、ある運動と自分の身体をシンボライズしていた。真摯な、技法の追求者であるがゆえの、重苦しい行きづまりが、そこにはあった。’ 70年代後半から、’80年代前半にかけての、建石修志の“軸”の彷徨”がはじまるのである。

-----------------------

蘇る、色彩・少年の日々

'80年代に入って、建石修志は個展ではない作品発表によって、横のつながりが広がってゆく。様々な企画展に参加するようになるのである。 

81、82年に、横尾竜彦、大島哲以、司修らの絵かき自身が企画した“幻視の森展”(セントラル絵画館)をはじめとして、82年の“二十世 紀末美術展”(板橋区立美術館)、83年の“幻視者たち展”(伊勢丹美術館)などに出品している。そこで生まれた画家たちとのつながりの中で、大島哲以の紹介によって、マリレ・イヌボウ・オノデラが校長をしているウイーン派絵画スクールで古典絵画の混合技法を学ぶのである。

の頃の建石修志は、色彩がほしくなっていた。彼は混合技法を修得することによって、自分の絵画の巾をひろげようとしたのであろう。エンピツのモノクロームの世界は、白い紙に黒で、影から描いてゆくのに対して、混合技法は有色に白で光をかいてゆく。エンピツ画とは逆の描き方が、建石修志にとっては、かえって入りやすかったという。この頃、建石修志の心の彷徨もまた終焉をつげる。苦悩の果てに、もう一度“物”を見つめなおすところからはじめようとした彼は、少年の日々を思い出す。エンピツをもって化石を描く幼い頃の自分の姿と出会うのである。

年と化石、少年と鉱物、少年と剥製、少年と博物学……。このイメージが彼の心の中でピッタリと重なっていったのである。少年、鉱物、輝く色彩の幻想──「少年は石の傍らで睡む」は、この時期の建石修志の仕事を代表する記念すべき作品だといってよいだろう。

-----------------------

建石流古典技法の開眼

近の建石修志は、アトリエにこもりっきりで、作品づくりに没頭している。

現われよ、泉!」にも見られるごとく、色彩の面でも彼自身の世界が展開されだした。それは、彼が、混合技法を、油を、テンペラ、アクリルと、自在に駆使し、自家楽籠中の物としてしまったにほかならない 。まさに、建石流古典技法の開眼である。テーマと技法を獲得した彼は今、絵画に全てのエネルギーを投入しているのだ。

た建石修志は、新たな試みとして、オブジェを“箱”に納めた作品を考えているという。箱の芸術作品というと、先駆者のマルセル=デュシャン、箱の作家・ジョセフ=コ−ネル、箱に憑かれたルーカス=サマラズなどの名が思い浮かぶ。そして日本での、加納光於と大岡信による「アラットの船あるいは空の密」(1972年)を前にして、胸をときめかした若い日を思い出す。

石修志の場合、小さい時に石を集めた箱、少年期の宝物の一式、当人にとってはかけがえのないコレクションを思い浮かべることだろう。そして、彼が大好きだった科学博物館の標本たちを。こうした“物”を入れた“箱”は、今の自分の状態の一つの側面であると、建石は語ってくれた。彼の感性は、固くて冷たい物を選ぶ。そうした建石修志にとっては、絵も箱も、その核は同じ次元あるのだろう。

.

..
■■■資料編纂係のコメント■■■

この記事は1990年に評論家中山幹雄氏が 選んだ画家を、それぞれ4回の連載で紹介していくシリーズのようです。
この時点、1990年で建石修志の大まかな流れはお解りいただけると思います。
手法的には、鉛筆、混合技法、BOX OBJETが現在も中心になっているわけです。
他にアクリル絵の具によるイラストレーション、 金地テンペラなどがありますが、数的にはごく少数のようです。作品、装幀、挿画が主なジャンルですが、一時、広告媒体にイラストレーションを描いていたこともあるようです。
中山氏の文章中、初回のところに、サロン・ド・プランタン賞、芸大買い取りとありますが、芸大買い取りは中山氏の誤解です。その当時、この二つが一人に与えられたことは無い筈です。
主人に確かめましたところ、どうしてこうなったのかさっぱりワカラン、とのことで、
ここで訂正をちゃんとしておくように申しつけられました。
わたくしには未だ全然把握出来ないのですが、仕事量はかなりの量のように思われますが、主人の日常からは、どうしても想像出来ないのです。
あれだけ遊んで、飲んだくれているのですから・・・。絵描きというのはこんなものなのでしょうか。
今時の若者がその生活を覗いたとしたら、幻滅すること確実です。(マズイ!失言)
(資料編纂係 記)●9/25


文/中井英夫
藝術生活1973年6月号

.
おそらく、かれはまだ生まれたばかりに違いない。髪の鍛冶師がその眼を刻み、眼は開かれたばかりに違いない。

アダムの朝。

彼はおずおずと周囲を見廻す。と、そこには、異形の裸童女ばかりがひしめいており、口々に語るのを聞くと、彼女らはすべて神の怒りに触れ、神の手で取り落とされた堕天使なのであった。

「嘘だ」
「嘘なもんですか」

硝子の眼玉が狡猾そうに笑って、

「ほら、これが落ちたときについた傷」

─嘘だ。

かれは心の中でくり返す。

─君たちは皆な、娼婦に変わったアリスなんだ。
その罰で人形にされ、その罰で暖炉のうえ、ミシンのうえから落下した、それだけのことさ。

神の手だなんて大げさな。そう、それとも罰が先にあって、罪はこれから始まるのだろうか。
これから娼婦に変わってゆくのだろうか。

「お兄さん、遊んでいかない?」

─そうら、来た。

「ダメだよ、仕事があるんだ」
「仕事ってなあに」
「君たちを描くんだ。素敵に大きいポスターにして街中に貼り出してやる」

人形の娼婦たちは、声を揃えて笑った。 童女の顔はそのとき、百歳の老婆のような皺を寄せた。

「それならどうぞ描いてちょうだい。時間に吊されているあたしを 」
「いいえ、あたしを描いて。鏡に入り損ねたあたしを」
「靴がない、またあたいの靴がない。誰かが凍りついた戸棚に匿したんだわ」
「皆な、お黙り」

年かさらしい一人が進み出て、艶然と笑った。カルメンのように腰をくねらせた。花飾りを付けた帽子をかぶり、見事な素裸だ。

「お兄さんのこと知ってるわ」
「知ってるって、何を」
「だって、お兄さんだって墜ちたじゃない」

かれは沈黙する。ふいに灼熱した光の記憶が甦る。その光に射られ、真青な海に落ちていった一瞬。

「そうよ、イカルスさん。パエトン兄さんから便りはあって?」

─そうか。やっぱり俺も墜ちた一人なのか。だとすれば……。

「ええ、そのとおり。あたくしがそのアリスなの」
「だって君は裸じゃないか」

「仕方がないわ。キャロル小父さんは、いつだって眼の中で着ているものを全部剥ぎ取っていたんですもの。恐い眼だった。青白く燃えて、まるでその眼の中から何かが伸びて巻きつくような」

「でも、あの人の手は優しかった筈だよ。無限に優しいといってもいいくらいに」

「ですからあなたもどうぞ優しくなすってちょうだい。どんなに大きなポスターに描かれてもいいから、あたしたちを醜く描かないで。壊れた夢のかけらを、全部拾い蒐めて。それだけが、お願い」

ふたたびかれが目覚めたとき、神の鍛冶師はもう手を休めて、満足そうに笑っていた。この眼はすべてのものを優しく裸にし、その手はさらに優しくその裸形を描き続けるだろう。黒一色の鉛筆画のなかに、ある日、跫音を忍ばせて金いろが入り込むだろう。それに続いて、たぶん暗い緑が。

しだいに、めくるめく色彩の饗宴が始まるかも知れない。それまでは、このつややかな漆黒の前で、私も足を停めていよう。
.

(なかい・ひでお/作家)

..
■■■資料編纂係のコメント■■■

●主人こと建石修志が、作家中井英夫氏と初めてお会いしたのが、計算すると1972年8月ということになります。

建石のそれからの仕事は中井氏と知り合ったことによって、明確に方向付けられたと言って良いようです。大学は卒業したもののブラブラとその日暮らしの、たぶん当時おきまりの画家志望の青年と言ったところでしょうか。

初めての出会いの時の印象を、ある雑誌にお互いが 書き合っている文章があるらしいのですが、発見次第公開いたしましょう。なんでもお互い非常な悪印象だったようです。

●これを契機に雑誌の連載の挿画、書籍の装幀が、中井・建石コンビとして始まってゆくのですが、未だにこのときの建石の挿画に惹かれるFUNの方がいらっしゃるらしく、主人は苦笑しております。

しかし中井氏の文章に、「色彩の饗宴が始まるかも・・・」とありますが、その後の建石の仕事は、見事にその通りになったと言っても過言ではないでしょう。

●中井氏がお亡くなりになったのが1993年12月ですから、略歴から推測して、建石の油彩とテムペラによる混合技法の作品を、見る機会があった筈なのですが、体調思わしくなく、未見のままだったようです。

その方が良かったのかも知れません(あっ、失言でした。わたくし余計なことを・・・)

(資料編纂係 記 )●9/16





 


 


†WORKS
NEWS

画廊逍遥
書物の衣裳
刊行物
カルチャーの時間
資料編纂係┤

†PRIVATES
徒然なる日々
驚異の部屋
Jean&Tonio
庭を巡る日々
LINK
郵便係シュヴァル

About Site
Contents