†                            

資料編纂室─分室2(“露出”の項目)

 


雑誌《グラフィケーション》
FAR WEST -「貝原浩鉛筆画集」より

2007年5月号 NO.150


僕達は覚えています 建石修志


 貝原さん、覚えていますか。新宿二丁目の
迷路のような木造の中の、そのまた迷宮のよ
うな飲み屋のこと。今はもう在りません。
 覚えていますか。もう終電車も往ってしま
った新宿の街の中を、?暗い日曜日″ を唄い、
?銀輪に乗って″も軽ろやかに口笛も吹いて
いたこと。今はもう、その歌声も街には残っ
ていません。
 覚えていますか。石垣島に向かう船の上から、
波間に漂う海蛍が美しく光り、そしてすぐに
消えてしまったこと。
 覚えていますか。?商船ティナ・シティ″
というBARの中を、扉越しに覗いたら、そ
の中は真暗で、ただの虚無だったこと。
 もう何もかも影の中ですが、僕達は覚えて
います。貝原ざんがその眼尻のシワ一杯に涙
をためた温かいマフラーだったことを‥∵・。
         (画家・イラストレ一夕ー)
 

追悼集「貝原を語る、貝原へ語る」 (二〇〇五年刊)
より。建石氏は大学で貝原氏の二年後輩にあたる

 


雑誌《イラストレーション》
TISの頁

2007年3月号 NO.164


本の中にあった我々の学校
 どうして美大に行こうと思ったのか、今となっては定かではないが、当時兄の机の上に
DALIの画集が置いてあり、それがとても衝撃で、これが直接の契機、と今までに何回か答
えたことがある。しかし本当のところは実に曖昧で、ただ単に一寸格好いい!と思っただけ
かも知れない。それまではサッカー部でボールを追っかけているばかり、プレッシャーも
なく、入試もなんだか遠足気分のようだった気がする。どうしたことか藝大にそのままと
おってしまった。デザイン科である(当時は工芸科と言っていた)。
 最初の課題は、正倉院の玉虫厨子の模写(前年は鳥獣戯画の模写だったそうで)、これには
流石に吃驚した。次に薔薇の花の平面構成、講評時に「この作品はシュルレアリスムです!」
と宣言する者、「薔薇は秘密の象徴で・・・under the roseというと・・・ 」なんだか面白
いことになってきた。当たり前のことだが、大学では教えてくれないのだ、精々講評の時に
コメントをもらうだけなのだ。受験の前に一時芸大生にデッサンを観てもらっていたのだが、
机の上に、刊行されたばかりの澁澤龍彦の「夢の宇宙誌」 を発見、貸してもらったのである。
それからは、全てのことに対して澁澤氏が先生となり、新刊は勿論、神田の古本屋街で澁澤
本を探し歩き、本の中で言及している文学、美術、映画、舐めるような生活であった。 社会
は大学闘争の真っ只中、「造反有理」が肩で風斬る勢いで、藝大も授業ボイコット、集会、
研究会(そういえばシュルレアリスム研究会って云うのを作ったんだった)、そして小規模な
がらバリケード封鎖もあったりした。街では「解放区」が出現し、機動隊と学生とのいつ終
わるとも知れない市街戦が続いていた。勿論こんな具合「デザイン」に興味が在ろう筈もな
い、どうにかして作品を作ろう、今の自分にしか描けない物を作ろう、どうしたら自分の欲
しているものが描き出せるのか、悶々とするばかりだった。そこに一つの答えを垣間見せて
くれたのは、大学ではなく、本であった。
そして、スケッチブックの上に何とか形を取り始めた自分のイメージするものを確かに表現
できるものはなにか?それは、一番身近であった「鉛筆」である。ここから鉛筆による作品の
制作が始まった。来る日も来る日も鉛筆ばかり削っていた。デッサンで散々使ってきた物なの
だが、まったく異なる世界に鉛筆が導いてくれるような気がした。「アリスの連作」はこうし
た時期に描かれたのである。
 デザイン科の学生の多くは、広告代理店や、メーカーの宣伝室に就職するのがほとんどであ
ったが、時代も時代、とても就職をする気になれず、かといって、フリーランスの仕事という
のも自信なし。卒業はしたものの、自宅で作品を作る毎日、流石にこの居候状態は居心地が悪
い。
 学生の時に知り合った編集者を思い出し、作品の写真を同封して、「何でもいいですからな
にか仕事在りませんか?」と手紙をしたためる。今で云う持ち込みなのだが、当時、どうした
らよいか解らなかったのである。その話が編集者の上司に伝わり、幸運にも或る作家を紹介し
て頂くことになる。それが中井英夫氏である。澁澤龍彦氏の本を読み耽っていたこともあって、
中井氏の名前は既知のものだったし、短編をいくつか読んでも居たのである。初めてお会いし
た時の緊張は忘れられない。未だ公に仕事している訳ではない、未知の若者に、雑誌の連載小
説のイラストレーションを依頼してきたのだ。今はもう既に廃刊となってしまった「太陽」で
ある。気に入って貰えたのか、雑誌の連載の仕事も、単行本の装幀の仕事も、数多くさせて頂
いた。
それまでも何冊かの装幀はしていたのだが、写植の指定から版下作り、資材の指定と初めての
経験も多く、デザイン科卒業であるはずなのに、さっぱり解らない。デザイン事務所に就職し
ている友人に助けられながら、版下を作ったのが、今では懐かしい。勿論パソコンのない時代
のこと。中井さんの仕事を続けるうちに、所謂<幻想文学>系の作家の仕事にも広がっていき、
展覧会のDMに文章を頂いたり、繋がりも拡大していった。
そんな折り、ドイツ人画家イヌボー・マリレ女史より、「ウィーン派絵画スクール」という学
校を開校するというバンフレットが送られてきた。何気なく眺めていたのだが、鉛筆だけの仕
事に正直、少し飽きてきたのも事実、「これは行くしかないか」と1年間通った。
ウィーン幻想派のそのままの技法と聞いたが、結局油彩とテムペラの混合技法で、特に有色下
地の上にテムペラによるモデリングというのが、ことのほか心地よく、鉛筆の仕事を続けてい
たことが、ここでもスムースに繋がったように思う。今では仕事の6割がこの混合技法で、こ
こに通ったのも転機の一つとなった。
 また今年亡くなられた久世光彦氏との仕事も、特に新聞連載小説の挿絵という初めての仕事
も、1年半近い連載を終えて、少しタフになった様にも思う。澁澤さんも中井さんも、久世さん
も今はもう居られず、時の経つことだけが速く感じられるこの頃だが、大学時代からのマニエ
リスム志向を、ことある毎に励まして下さる高山宏氏には、今も感謝、深謝である。

 


創元ライブラリ
《中井英夫全集5-夕映少年》付録
2002年12月27日発行


月の夜毎

         建石修志

 先夜、或る出版社の編集者と一献ということになり、編集者行きつけのBARへと向かう。久しぶり
の新宿をプラプラと後をついてゆくと、そこはなんと?薔薇土″であった。なにかにつけ夜な夜な集っ
ていた、新宿の我らの領土である。中井さん言うところの?分身″田中貞夫さんの店である。当然のこ
と、田中さんが病に伏されてからは、店は他の方が引き取り、名前も変わってしまっていて、狭い小路
を入り、細い階段を三階まで上がってゆくその時間ほ、なにかしら不安な心持ちになるのであった。店
内は改装され、当時の面影はカウンターの位置ぐらいなのだけれど、十数年ぶりに訪れた空間は、あの
頃のことを想い出させずにはおかない。ウイスキーの瓶もだいぶ軽くなった頃、編集氏の体調悪く、ト
イレに暫く入ったままの状態で、一人カウンターに残されてしまい、煙草を喫いながら中井さんやマス
ター、いつも一緒に飲み遊んでいた友人達を所々に視てしまうような気がしてくる。初めて中井さんに
お会いし、薔薇土を紹介され、怖怖足を踏み入れて、緊張のあまりか、間が抜けているのか、「なにか
飲む?」というマスターに、「カルピス」と応えてしまった恥ずかしさ。
 
中井英夫の文学について何かを言えるような立場に私はとうてい無いが、中井さんと共にした一時期
の、いくつかのエピソードは今も鮮明に憶い出すことが出来る。

 某月某日 
月刊誌「太陽」での中井さんとの初めての仕事が始まった数ヶ月後の或る夜、例によって
薔薇土へと足を運ぶ。中井さんをはじめ、いつもの面々がカウンターに陣取って、楽しげにかつ哲学的
にも見える様子で興じている。一緒になってグラスを重ね、酔いもだいぶまわってきた頃、中井さんが
「もう一軒行こう」と誘う。誘われるままに二丁目のBARへとついて行く。何杯かグラスを空けた頃、
キャロルの?アリス″ の話となり、その内「何故、鏡は左右反対に映るのに、天地逆様にはならない
の?」と中井さんが尋ねる。酔った頭で「それはですね、実像をただ反射するしかない虚像だからです
ヨ」とか「眼が左右に付いているからじゃないのかナ」とか、まったく答えにならないことを口走って
いると、いきなり「愚か痴愚! オマエなんか新宿で洒を飲む資格はないんだ!」。すっかり酔いも醒
めてしまい、畜生、帰ってやるとBARを飛び出したけれど、さすがに意気消沈。新宿駅へと向かう寒
空には、月の舟が浮かんでいた。
 某月某日
 中井さんの北軽井沢の山荘が出来、毎季節のように薔薇土に集まる面々は蒲団を積んで車
に分乗したり、電車でと、その季節の楽しみをあてにしながら流薔園を目指す。今ほ初秋、アカヤマド
リだ、ムラサキシメジだ、ヌメリイグチだと、メンバーの一人のキノコ画家の発見した秘密の林の繁茂
地で、夢中で枯葉を引っくり返しながら、見つけ出す度に大喜びである。勿論その夜は、ハター焼、オ
ムレツ、サラダに鍋にとキノコ尽しの饗宴である。 ただ今回は、こちらの事情が事情で、というか結
婚したばかり、引越しも終わっていない状態での北軽行き。早々に東京へ帰還のつもり。?真実の人?
マスターが軽い夕食を作ってくれるが、なにやら中井さんを筆頭にゴソゴソと台所と居間を往復し、メ
ンバーの間でも目くばせが交錯する。列車に間に合わないと焦る玄関口で、中井さんがビニール袋一杯
のキノコを渡しながら、「これお土産、トモ丸(我が愚妻)と一緒にね。早目に食べた方がいいよ」
「…‥」なんだか突然黒い疑念が胸に湧き上がる。それもその筈、数日前の、我が家での結婚披露の宴
に出席していたこのメンバーからは、祝福の言葉は一切無く、姉の作った中華料理を大絶賛する他は、
「後悔するゾ」、「なんでまた結婚を……」と散々だったのだから。東京へと向かう列車の中、膝の上に
はビニール袋に詰められた黒い疑念がのせられている。車窓から秋の夜空に弓張月が覗いている。後日
中井さんからの電話は「大丈夫?」「勿論!」さすがに我らの食卓にキノコが上ることほ無かった。
 某月某日
 今日は羽根木の中井さん宅にて、恒例の薔薇パーティ。フラウ・カール・ドルシュキーも
薄い桃色の縁から純白へと色を変えて、美しく咲き誇る黄昏の庭。三三五五招待客も集まり、ワインに
薔薇、ご馳走にお話の椀飯振舞い。ワインの瓶も整然と横たわり、野良猫が残り物を漁りに警戒しなが
ら庭を横切る。芸術論も文学論も、噂話にも疲れてしまい、招待客も帰り仕度。残ったのはいつもの薔
薇土のメンバー。縁側から薔薇の白さに見入りながら、誰れの声か「ストリーキソグしようか」。「エッ
ー」と私、「やろう」と中井さん。言い出したのは、やはりキノコ画家。中井さんは徐に暫定鋏を取り
出して、見事な白薔薇を惜し気もなく切り落とし、「これはムッシュー(キノコ画家)、これはオレの、
建石君のはこの一番小さいので充分だ」。中井さんのは一番の大輪で、見事に大・中・小に揃えられて
いる。キノコ画家が中位の薔薇を股間にあてがい、庭の端から端までを走り抜ける間に、私は二階に上
がって、窓から屋根の上へと忍び上がった。「建石君はどこだ?」と庭先から寄薇を股間の中井さんの
探す声。「ここです」と応える私に、「蓄薇はどうしたの」。屋根の上に這い上がるに懸命で、衣裳の薔
薇ほどこへやら。そんな六月の彼宵にはルナ・ロッサが吊るされていた。
 こうしたエピソードならいくつも憶い出すことが出来る。でも……。
 十二月十日 「僕は間に合いそうもないので、建石さん、すぐに行って下さい」電話は本多さん。激
しく降り続く雨の中、病室に急ぐと、ベッドにほ頬骨ばかりか眼窩も鋭い中井さんが横たわっている。
病室に着いて一分後、中井さんは私の眼の前で息を引き取った。降る雨に月も出ず、中井さんの顔にカ
ーテンほ引かれた。
 二十数年に及ぷ中井さんとの付き合い、数多くの仕事をご一緒にさせて頂いたが、不思議と仕事につ
いての億い出は強く残ることなく、又、中井さん個人の実像を知ることもなく、中井さんの作り出して
いた磁場の中で、奇妙な磁力に宙吊りにされたまま浮遊していたこと自体が、私の中井体験なのかもし
れない。不安定に漂い続ける魂は、真黒な虚無の中へと吸い込まれそうであった。

 トイレに籠ったままの編集者がやっと起き上がり、共に薔薇土の屏を開けて外に出ようとした一瞬、カ
ウンターにほあのいつもの面々がこちらに手を振っている気がした。

 

河出文庫
《不気味な話─江戸川乱歩》解説
1994年12月2日発行

 ある雑誌の乱歩特集の中で「胎内瞑望」をテーマに、
「乱歩は日常の空間から、消失点をもたない闇という身体のパースペクティブの中へ踏み外してしまった」
と書いたのだが、
この文庫のアンソロジーのうちの「押絵と探する男」ほど、
何から何まで遠近法の逸脱をモチーフにした小説は思いつかない。
そして、乱歩の小説の中から一篇だけを選べと言われれば、
迷う事なくこの「押絵と族する男」を挙げるだろう。
 解説を書こうとして、あのダダイスト、マルセル・デュシャンのことを思い出した。
デュシャンは言うまでもなく今世紀最大の芸術概念の転覆老であり、
センセーショナリストであり、謎である。
写実、印象派、キュビズム、未来派を一瞬のうちに駆け抜けて、有名な、便器による「泉」のオブジェを作り、
「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」通称“大ガラス”を経て、
遺作となる「(1)落ちる水、(2)照明用ガスが与えられたとせよ」に至るのだが、
そこに一貫して見えてくるのは、透視法への疑問であり、挑発であり、
透視法を通しての人間の認識装置としての視覚の枠組をどうにか変換出来ないかという意識だったのだと思える。
レディー・メードによるオブジェとは、物体を日常のパースペクティブの中から、
時・空間をもろとも切り取って来ることであり、
多くの箱によるオブジェも、切り取られた日常の断片である幾つかの物体を、
箱という枠組の中に配置させることで、全く新たなパースペクティブの現出に立ち会おうとしたのだ。 
また、デュシャンは「トランクの箱」というオブジェを作る。
それまでに制作した代表作のすべてが、ミニチュアとして収縮されて、箱に収められているのだが、
それぞれ異なる時・空間をもつ作品をひとつの箱の中に収めてしまうのだから、
デュシャンが、デュシャン自身であるトランクを持ち歩いているということになる。
箱とは劇場であり、世界であり、デュシャンといふ錯綜したひとつのパースペクティブそのものであった。
そうして最後の作品となる“遺作”は、エロティツクな覗きからくりのような箱であった。

  魚津の浜に立ち現れる蜃気楼。
一人の老人に出会うのは、蜃気楼を目の当りにした、その帰りの汽車の中である。
「押絵と族する男」の発端から、この短編の怪かしの気配が漂い、
老人の語る話そのものが、まるで蜃気楼のようにユルユルと揺れながら、
近くから遠方へ、遠方からこちら側へとその見え方を変えながら、宙に浮かんでいる。
蜃気楼とは周知のように、地表における場所による温度差と、空気の密度の違いにより、
光が屈折し、遠方のものがごく近くに見えたり、
地上の物体が空中に浮かんで見えたりする現象のことをいう訳だが、
言い換えれば、或る特殊な地域の空間そのものが、
一枚の巨大なレンズ、
巨大な幻燈機と化して、濃密な気体の皮膚のうえに、一時の白昼の幻を現出させているのだ。
乱歩も“私”に言わせている。
「途方もなく巨大な映画にして、大空にうつし出したようなものであった。・‥見る者との距離が曖昧なのだ。
遠くの海上にただよう大入道のようでもあり、ともすれば、眼前一尺にせまる異形の靄かと見え‥・」るのだ。
実態が在るようでいて、そこに在るのは実は、虚ろな空間でしかない、手の届くところに在るようで、
遥か彼方のむこうに在るようにも見える。
これはもう巨大な怪かしの光学装置である。
光学装置とは、我々の肉眼による、視覚の逸脱なのである。
 地上十二階・凌雲閣の上から兄が一心不乱に覗き視る双眼鏡、速めがね、からくり屋の覗きめがね。
乱歩のレンズ嗜好症はつとに知られているが、実に巧妙にこの視の装置を用いて、
こちらのパースペクティブを易々と向う側の在り得ない虚構のパースペクティブヘとすり替えてしまうのだ 。
そもそもこれらの光学機械は、我々を取り巻く空間の中から局部だけを取り出して、
通常のパースペクティブから強引に拡大し、引き伸ばし、
空間そのものを特殊化させるための道具であり、視る者と視られる者とを橋渡ししながら、
視る者を暗闇の円形に切り取られた欲望の視祭空間へと投げ込むための道具でもあるのだ。
拡大された過剰な空間性は、過剰が故に、
整然と秩序だてられたパースベクティブから逸脱せざるを得ないのである。
ましてや、それを逆しまに覗くとは、逆遠近法の徹底であり、視覚の倒錯である。
ここでは覗き視る我々の身体そのものの位相の変換も可能に思えるほどに、
奇妙な空間の歪みが現れるのである。
 そして、物語の中心モチーフは勿論“押絵”である。この平面でもなく、立体でもない
僅かな膨らみを見せるレリーフ状の肖像は、
身体という三次元の物体を圧縮し、極度にその奥行きを薄くしながら、それでいて、人間の肉の痕跡を窺わせる。
押絵自体が周囲に歪んだ空間を作り出す、これは一個のオブジェなのだ。
青畳と格天井、書院凰の窓に文机、この背景も人物が奥行きを極端に短縮された分だけ、
度合を強めて、在り得ない空間を作る。
押絵とは、平板な板のうえの架空の劇場であり、芝居の背景の書き割り同様、虚構を虚構と知りながら、
人物さえも強引にその平らな虚構のパースペクティブの中に萩め込んでしまう、騙し絵なのである。
マニエリスム期に盛んに作り出されたトロンプ・ルイユ。
壁に描かれた半開きの扉、扉からこちらを窺う少女、現実の建築物につながるように見える描かれた柱。
バロックの天井画の眩暈を起こしてしまいそうな中心の無い空間。
総て、在るようでいて、手を伸ばせば、そこに在るのは、ただの壁でしかない。
我々の眼というレンズが網膜に映し出した錯覚でしかないのだ。
 蜃気楼、押絵、遠めがね、ここにみられるモチーフに通底しているのは、
一点の消失点に向かいながら、秩序だった世界のパースペクティブを拡大し、収縮し、歪ませ、戻れさせて、
虚構のパースペクティブヘとすり替えてしまう装置だということだろう。
“私”と老人が出会う汽車は、レールという一点透視法の見事な具体化の上を
走り抜ける一つの箱のように見えるが、
実はこの汽車こそ、夕暮れの黒血色の霧の中を行きながら、現実というパースペクティブから、
幻想のパースベクティブヘとすり替わる為の、長い遠めがねのような暗箱だったのである。

  デュシヤンは自分の作品のミニチュアをトランクに畳み込んで持ち歩いたが、
乱歩の浮かび上がらせた老人は、押絵という歪められたパースペクティブの中に、
自分自身(=兄)をミニチュアにし、風呂敷という箱に収めて、自分を蜃気楼のように見せながら、
暗闇の世界の果てに向かって歩いて行ったとしか思えないのだ。
資料編纂係のコメント
1994年の原稿です。まさか文庫本の解説を書いていたとは信じられないことでしたが、
前出の「胎内願望」同様、江戸川乱歩についての文章です。
ただこれは乱歩の“不気味な話”のアンソロジーなのであって、「押し絵と旅する男」についての解説では無いというのが、
どうしても不思議に思ってしまいます。
アンソロジーとしての解説ならば、他の小説についての言及があるはずだと思うのですが、
見事に「゜押し絵と・・・」に絞ってしまっているのがいかにも主人らしいところなのでしょうか。
汽車を遠めがねとして捉えたり、それなりに面白い視点があって、 いかにも絵描きの文章らしい。
わたくしも乱歩作品から一点を選べと言われれば、
迷うことなくこの「押し絵と旅する男」をあげると思います。
(10/26記)

雑誌《太陽》
1994年6月号
特集:江戸川乱歩

 遠近法の成立は、中世の末期からルネッサンスにかけて確実なものとなる。
空間をどのように捉えるか、人間と空間の閑係をどのように認識するか。
遠近法の歴史とは、世界をどう考えたかという具体的な方法の歴史であった。
そして遠近法、即ち透視図法の最大の鍵は消失点の発見である。
この透視図法の成立をしっかりと支えたのは、
プラトン主義のイデア説を見るように、世界はある真理によって造られていて、
正しく秩序立てられているのだという思いである。
真理とは美であり、それは調和のとれた秩序の内に在ると。
遇剰なもの、異様なもの、歪んだもの、欠けたもの、調和から逸脱するものはそこにはない。
 しかしこの透視図法もマニュリスム、バロックに至って、
少しずつその光を屈折させはじめ、奇妙に歪んだ世界へと変容してゆく。
その変容の契機を美術史家の若桑みどり氏は″闇″であると言う。
透視図法は空間を捉えるための一つの手法であるが、
そこには人物なり、物体なりの数の配列があって初めて成り立つのであって、
何物もない唯の空間には、
透視図法を成り立たせるための中心=消失点を見出すことができず、
図法上の意味を失ってしまう。
たくさんの天使飛び交うバロック教会の天井画。
神の光によって輝くばかりに明るいのだが、その実、
消失点を持たない暗い無限の空間となっているのだ。
この無限感覚は、闇の中に在って夜を透かし見ようとする時も同様で、
明るい虚空も、暗黒の閣も、
遠近法から踏み外してしまっている。
闇は透視図法を無化する。
眼を瞑ってしまえば、そこは真暗な無限だ。

 さて、乱歩だ。乱歩の世界に遠近法はない。
乱歩の現実の生活を、年譜を見ながら辿ってみると、
転職につぐ転職、転居につぐ転居。
これは白星の都市という迷宮の時空間を、影を軌跡にしつつ、
大きくなつたり小さくなったりしながら、
遠近法そのままに、休むことなく散策しているということだ。
にも拘らず、乱歩が夢想する闇の世界は、
透視図法の裏面に、大小様々な暗い箱を装置しながら、
透視図法の視覚のビラミッドをことごとく消し去ってしまう。
それは乱歩の内に消失点がないからであり、
乱歩が心の奥底から強く求めていたのは、
闇そのものだったからであろう。
視覚の光束の届かない闇こそ、魂の休息する所、夢想の棲み家であり、
畳の乱歩を柔らかく温かく癒してくれる避難場所だったのである。
 バシュラールは『空間の詩学』の中で「われわれが身をひそめ、
からだをちぢめていたいとねがう一切の奥まった片隅の空間は、
想像力にとつては一つの孤独であり、すなわち、部屋の胚種であり、家の胚種である。」(岩村行雄訳)
と記して魂の地形分析を始める。
「片隅はまず、避難場所である。片隅は半ば壁、半ば戸である一種の半分の箱なのだ:・⊥。
この片隅の空間の箱とは、屋根裏の散歩者・郷田三郎が退屈しのぎに思いついた、
押入れの中での生活とぴったり重ねられるだろう。
蒲団の柔らかな感触、時間、だれにも邪魔されることのない夢想の隠れ家。
幅一間の暗い箱の中で文字通り浮遊している郷田、
そして乱歩その人。
この時乱歩は、
白星の都市のパースペクティブから無意識のうちに大きく足を踏み外して、
真逆様に遠近法の必要ない閤の世界に宙吊りにされている。
屋根裏とは逆転した地下室であって、
押入れという四角い暗箱へと通底していろ蛇腹状の空間なのだ。
そしてこれは、家の中の洞窟そのものである。
郷田は節穴というレンズを通して、死を実現する。
暗い洞窟の先に在る“死”、これはもう黄泉の団へとまっしぐらだ。
グロテスクの語源でもある洞窟(グロッタ)とは、
元来、死と再生のための聖なる空間であった。
バシュラールはr大地と休息の夢想」の中で
「・…=洞窟は自然の董であり、母=大地が準備する墓である。…=・そして大地の生に加わることである…=」
(響庭孝男訳)と。

これは母胎そのものの意であろう。
rお勢登場」の格太郎が苦悶のうちに果てる長持、
内側を鏡面で覆ったr鏡地獄」の球体、
「・・・まっ暗な、息苦しい、まるで墓場の中へはいったような
……この椅子の中の世界こそ、私に与えられた、ほんとうのすみかではないかと……」と
語らせる『人間椅子』、
『孤島の鬼』の洞窟、乱歩の造り出す世界には、
移しい数の狭く閉ざされた暗閣の空間、真暗な箱のモチーフが用意されている。
ここから一つ覚えのフロイトの胎内回帰願望を読みとることは容易だし、
乱歩論のほとんどがそれにも触れている。
ただ、バロックの過剰で、異様な闇の美学と同様に、
乱歩は乱歩自身の肉体という暗い箱の中に無限空間を覗いてしまったのであり、
中心を喪失してしまい、自分の位置を定めるべき消失点を見つけようもない
無間地獄を垣間見てしまったために、
空虚な肉体という箱を守ってくれるもう一つの箱=母胎という″死″を夢想し続けたのだとも言えないだろうか。
 
乱歩が狭い路地をコツコツと歩いている。次第に夕陽は地平に傾き、
乱歩の影法師が長く路面を伸ばしてゆく。
音もたてずに、大きくその閣を拡げて、乱歩その人をも呑み込んでしまう。
もう今は、影法師を造り出す消失点であつた夕陽も消失して、
真紅の虚空が拡がるばかりだ。
眼を瞑ってみても、同じ闇の無限が拡がっている。
乱歩の消失点か。
     (たていし しゅうじ 画家)
資料編纂係のコメント

94年の原稿です。
全集や、単行本などで、一人の作家のほとんどの文章を読んでいるというのは少ないものですが、
主人は、澁澤龍彦、稲垣足穂、種村季弘、三島由紀夫、そして江戸川乱歩は読んでいるそうです。
乱歩特集でこんな原稿依頼が来るというのも、
多分主人は、何だか怪しげな、それこそ小説の中の登場人物のように思われているのではないでしょうか。
実際の主人の言動を見知っているわたくしとしては、平凡なただのオジン(失礼)にしか見えないのですが・・・。
“胎内願望 ”は編集部が主人に割り振ったテーマですが、
フロイト理論に凭れそうなところを、遠近法で誤魔化したというのが、読後のわたくしの感想です。
この後主人は、文庫の解説文まで書くことになるのですが、
こういう論がどういう物なのか、わたくしにはさっぱり解りません。
やっぱり徹底的にvisualな人間なのでしょうが、
イメージの幾つかは理解出来るのですが、文章がねぇー・・・。
資料編纂係のわたくしが生意気にこんなことをコメントしていちゃいけないのでしょうが、
柄澤氏の小説もでてしまった昨今、少しは文章修行でもしてください、
と、言って見たくもなるのです。よろしく。(2/17記)

雑誌季刊《プリンツ21》
1996年春号
特集:Angel on Sale
      
″ケルビム”は“智天使”を意味する言葉。
天使や少年を描き続けてきた画家・建石修志は仕事場に「ケルピムの五月商会」という名称を与えている。
その理由を「僕が考えている天使のイメージにl番ぴったりくる天使がケルビム。
仕事場でどんどんそういったものを生み出していけるようにという遊び半分真面目半分で付けた」という建石が、
最初に今のテーマに繋がる作品を制作したのは、75年頃の個展「変形譚」の時。
ギリシア神話にある変身のテーマに着想を得たシリーズだが、
あるものがあるものに変わる途中の段階に関心を持ったという。
その一種の天使性のようなものへの興味から、その後螺旋、軸などの形や解剖図のイメージを元に作品を描きはじめ、
80年頃から少年という形に至る。
 「天使は中間者である、と僕は考えています。
こちら側と向こう側の間、とか彼岸と此岸の間、或いは精神と肉体の間、男と女の性の中間、
あらゆるものの中間にいる存在。見えるけれど見えない、すごく観念的でもフェティッシュなものでもある。
全く違う側面、意味の両義性を収斂しているそういう一点に一番惹かれます。
 現在の作品はコラージュの方法論を利用しながら、遠近法と平面性の融合を考えている。
平面的な画面にある空間を持ってくる、別の空間と接続してみる、そしてまた、平面に戻してみる。
遠近法によって現れてくる空間と平面の狭間に、
詩的現実或いは詩的ヴィジョンとも呼べるある種の気配が生み出される。
今の手法や作風に一番大きく影響しているのは、
高校生の頃から読み続けた澁澤龍彦さんやダリ、エルンストなどシュルレアリスムの世界。
今でも影響を受けていると思う。
ホッケの「迷宮としての世界」で明確になったマニエリスムが、文学や哲学に橋を架けていったように、
シュルレアリスムは様々なジァンル、メディアに通底しているように思える。
境界線を取り払って他の世界を取り込む作業をしないと美術もだめだと思う。
 
 天使を表現している画家である自分の目で世の中を見ると、天使は存在しない。
天使は象徴であって、自分が或るものと関わる時の“方向性”のようなもの。
だから、羽をばたばたさせているのが見えるとか言うのではなく、
例えば“痕跡”とか“光そのもの”、そして“影”、そういうものに天使を感じたりします。
香水を嗅いだ時に感じる気配や、何かをスクリーンに映し出す時に、
間に痕跡として見えるものも天使かも知れない。
仕事部屋の影が乱反射で壁に映る時の、光源の解らない光の影もそう。
水晶や鉱物の原石などには、天使の気配が凝縮しているようにも思えるし、
少年にも同じものを感じる。
フラ・アンジェリコの描く壁画の画面そのものから感じる気配や、
ジョセフ・コーネルの箱のオブジェ、野中ユリさんの作品にも同じような天使性を感じます。
 漫画、小説など様々二階祝された「天使ブーム」は面白いと思うし、
自分もグッズなどを見て可愛いと思ったりもするけれど、あまり興味はない。
経済的、商業主義的な理由で便利に利用されていたりもする。
ただよく考えると、「天使ブームというのは、時代そのものを内包する暗黒を、
抽象的で夢のような天使の姿を借りて寝隠蔽しようとする邪悪な力なのかも知れない。
いつでも起こり得るし、面白いことだと思います。」(談) 
資料編纂係のコメント


雑誌《ユリイカ》
1995年2月号
特集:マニエリスムの現在

 何年か前に、或る雑誌で“空想美術館″という架空の美術館を、
自分自身がキュレーターとなって作り上げるという連載企画があり、
その内の一回を担当したことがある。
美術という枠組みに縛られることなくあらゆるカテゴリーを含めて選択が可能という条件であった。
その収納品は、鉱物標本にはじまり、ファルネーゼ宮の螺旋階段、さぎえ堂に時計、
柘槽に化学博物館、卵、ジョセフ・コーネルの箱のオブジェ、
解剖模型に世界地図、デユシヤンのオブジェ……とそれぞれが全く何の関係も持たない物体の集合なのだが、
それらに通底しているのは、一つ二ーつの物体がその内側に“秘密”を内包している容器であり、
箱であるという概念である。
謎を一枚の箱という皮膚で被っているのである。そしてその美術館の成り立ち自体が、
様々な時代のあらゆる美術のジャンルの百村全書というヴィジュアルな″驚異の部屋″であり、
視の認識のノアの箱舟であり、書割並らぶ劇場であり、世界の模型であった。
“箱”とは不思議な空間である。
或る空間を枠取りする装置でありながら、すべてをその内側に包み込んでしまうことも出来る。
空想美術館という箱は、その内側に様々な形体のそれぞれに分断された箱を納めながら、
想像力という一点で綜合された全として機能しているのだ。
 
  現在我々の眼にする数々の箱によるオブジェは、マルセル・デュシヤンのレディー・メードによるオブジェの
延長線上に在る訳だが、箱の中に配置・接合されている断片は、
元来の在るべき時空間のパースベクティプから解き放たれて、解体され、
再構築されることによって新たなパースベクティブを現出させるのである。
一つの断片が別の断片と出会い、接合し、又新たな断片と呼応しながら、
そこに強力な神秘的な磁場を発生させるのだ。
ルネッサンス以来現在まで、認識の為の視の装置として呪縛し続けてきた遠近法が、
“箱”という概念によって開かれたとも言えるだろう。
この箱によるオブジェを強力に推し進めたのは、
言うまでもなくアンドレ・ブルトンをはじめとするシェルレアリスト達であり、
″デペイズマン”という方法論である。
パピエ・コレに始まり、コラージユ、言葉による優美なる屍骸、
アッサンプラージユと執拗に繰り返し展開し続ける〈最もかけはなれた物と物との組み合わせ〉。
在るべき場所から、在り得べからぎる場所への追放、解体、結合。
シェルレアリスト達がこの方法に熱中して何を探し求めていたのか、それは″驚異”である。
ブルトンは宣言の中で「驚異だけが美しい」と書く。
そして私がオブジェも絵画も含めて作品を創り出す為の確実な方法論の一側面が″デペイズマン″である。

 私は永い間、鉛筆による細密描法で絵を描いてきたのだが、
それはイメージを速く画面に定着させたいと思うことと、
色彩による漠とした、弱められた輪郭を拒否したかったからである。
細部にわたる明確な形体が欲しかったからである。
明確な輪郭を持つイメージ同士が互いに放電し合いながら、平板な画面の上に磁場を作り上げる。
デカルコマニー、フロッタージユ、アナモルフォーシス、デフォルメと試しながら、
二重にデプらせ、ありとあらゆるトロンプ・ルイユを施し、組み合わせ、
又それを架空の消失点の中へと投げ返したり、璧の上に投影してもう一度覚醒させる。
物と物、物と空間、空間と空間とそれらが互いに複雑にからみ合い錯綜し、謎を生む。
イメージがイメージと出逢い、イマジネーションが次のイメージを発生させる。
これらの試行錯誤のような操作は、造型的な意味での工夫というより、画面という鏡を前にした、
実像と虚像の綾とりゲームであり、鏡の上に浮かび上がる″驚異″の出現の為の果てしの無い、
手と眼球によるイメージの錬金術だったのである。
その為にこそ、それ自体が自己目的化する程の手法への偏執が必要だったのである。

 私はシェルレアリスムに沿って美術を見直すなかで、
初めて、より拡い、大きな概念としてのマニュリスムの箱の扉の前に辿り着けたように思う。
バラバラに在るあらゆるジャンル、あらゆる観念を次々に蝶番で繋げながら綜合して進むしか、
新しい地平を望むことは出来ないのだろう。
蝶番こそが、それぞれを関係させていく想像力なのだ。
そして“驚異″とはブルトンの宣言中の次の言葉にずぅーと先で繋がるだろう。
「:…・私は夢と現実という、外見はまるで相容れない二つの状態が、
一種の絶対的現実、言ってよければ一種の超現実のなかに、
いつしか解消されてしまうことを信じる。
その征服こそは私の目指すところであって、
かならずそこへ到達できる
とは思えないにしても……」(巌谷囲士訳)
資料編纂係のコメント

《ダニエル・キース読本》
1995年1月25日発行
早川書房

 1919年、アンドレ・ブルトンとフィリップ・スーポーの二人は、
不安なパリの片隅のカフェで”自動記述“の実験を始める。
ブルトンが『シェルレアリスム宣言』を発表する五年前のことである。
 この”自動記述“はブルトンにとって、宣言以後、
あらゆるジャンルに対して活発に活動しはじめる最初の契機であり、もっとも重要な手法でもあった。
ブルトンは、あのジークムント・フロイトの同時代人であり、
医学生として精神病院に出入りしていたことから見ても、
フロイトの”自由連想法“に大きな興味を抱いていたのは明らかなことだ。
フロイトの自由連想が、寝椅子に横になった患者の連想を通して、
抑圧された心のトラウマを表に引き出すことで症状を治癒しようとしたのに対し、
”自動記述法“は、場所はどこであれ精神を集中できるところで、
恐ろしい速度で思い浮かぶ言葉の流出を機械のように記述する方法をとる。
思考の速度を記述の速度が追い越すはど速く、とにかく速く書き続ける。
ブルトンは記述の速度を速めることで、言葉を操る昼間の意識的自我から、
じょじょに、自己とは認めがたい或る何者かに、その筆者の主体をすり替えようとしたのである。
つまり速く記述することで、筆者の内にある無意識を言葉によって覆わにしようとしたのであり、
そのためには、理性や合理といった意識の制約が入り込む隙間のないはどの速度が必要であった。
自動記述法とは、心の純粋な自動現象=無意識の世界を引き出すことから”オートマティズムの記述 ″であり、
それを自動的に記述するという二重の意味でオートマティックなのである。
『シユルレアリスム宣言』のなかでブルトンは、シェルレアリスムを「・・・口述、記述、そのはか
あらゆる方法を用いて、思考の真の働きを表現しようとする、心の純粋な自動現象・・・」と定義する。
シユルレアリスムがまず考えた■のは、美学上の問題ではなく、精神分析医の臨床の実験のようなことなのだ。
自己とは意識的な自我のみによって成り立っているのではなく、
心の内奥深く隠された無意識的な自我を同一平面上に乗せて考えなければ捉えようもない何者かなのであり、
自我を支えているものこそが巨大な無意識の世界なのである。
かってあのランボーは「我は他者なり」と叫んだ。
「私」とは、「私」にとっていまだに未知の「他者」なのである。
自分自身が書いているのではなく、誰か自分ではない何者かが筆を走らせているのである。
ブルトンの考えた自動記述は、このランボーの一節に、見事に象徴されている。
 自分のなかに自分の知らない他者がいる。
これは、近代以降の我々には当たり前の共通感覚であり、
小さな子供にしてから、周囲を驚かさずにはおかない二重性を見せる。
子供のころに我々は、ある恐れをこめて友人に「二重人格!」と宣告したものである。
しかし、そう宣告しながら同時に、自分自身に対しても全く同じ言葉を告げていたのである。
『ジキル博士とハイド氏』 『ウィリアム・ウィルソン』等、
二重人格を主題とした文学はそれこそ枚挙にいとまなく、というより、
近代文学とはすべて多かれ少なかれ、
我々の二重性、多重性についてのさまざまな側面からの書き換えなのだと言って差し支えないように思える。
                                            
 我々は幾度となく、「今の自分は本当の自分ではない」という呪文を繰り返し、
在るべき自己と、現実の自己との分裂にあいながら、心の均衡を保ってきた。
しかしながら、この分裂という抑圧は、自分自身の変身願望と裏表の関係にあるように見える。
昼間は平凡な市民生活を送りながら、夕暮れになると、
その制服となったビジネス・スーツを脱ぎ捨てて、スターのような衣装に身を包み
一時のスポットライトを浴びるのも、全身黒づくめの闇と化し、
夜の公園を欲望する眼となって徘徊するのも、
抑圧と欲望の二重性を何の苦もなく体現している我々の生活と、
全く同じ地平にある。
子供のころに、月光仮面を筆頭に、黄金仮面、七色仮面と、仮面をかぶったヒーローたちが跋扈していたのだが、
仮面を顔にかぶりさえすれば、容易に自分たちの日常から跳びはねることができたのである。
仮面のヒーローたちは我々の変身願望を小さく充足させてくれる、便利な身代わりであった。
衣装交換(コスチューム・プレイ)も、仮面も、「自分ではない何者かになってしまいたい」 
「今の自分は本当の自分ではない」という変身願望と自己否定のためのトリッキィなオブジェだったのである。
二重性とは、結局のところ、善と意、聖と俗、光と闇、男と女・・・・という二元論に集約された理念そのものの、
現実のなかでの一つの対応の仕方であり、
ベクトルの方向をプラスヘ、またはマイナスへと傾ければ、
そこに立ち現われてくる相貌は、天使にも怪物にも変化してしまうに違いないのである。           

さて、いま我々の前にある”ビリー・ミリガン“なる人物の生の記録は、
幼児虐待という痛ましい体験を契機として、二四の仮面をかぶり換えることで、
繊細で弱々しい自我を守り通していかざるを得なかった一人の青年の軌跡である。
暴力的なレイゲンも、失語症のクリステンも、眼鏡のアーサーも、絵を画くアレンも、
小さなビリーにさまざまな側面を見せながら迫ってくる現実から、
どうにか守ろうとビリー自身が作り出した巧妙なコスチュームの装置である。
”内なる二重性“を漠然と自分自身に対して見つめているつもりでいても、
ここにある二十四もの、人種も性格も性別も異なる鏡像を目の当たりにすると、
愕然とせざるを得ない。
そして登場の仕方としてのスポットが、舞台のうえの演劇を思わせることにも驚かされる。
 しかし、何といっても私は、二六歳の〈教師〉 の出現に強く引き付けられる。
「私は一つに統合されたビリーです」と語る 〈教師〉。
世界が二重にズレて映るどころか、二三の異なる世界観が入れ替わり立ち替わりするなかで、
徐々に一つの世界像へと収斂していく心のなかの時間の流れが、
まるでスクリーンの上のボケた映像が、
少しずつその輪郭を明確にしていくように感じられて興味深い。
 この 『ビリー・ミリガンと23の棺』をまえに私がしなければならなかったのは、
ブック・デザインであり、カヴアー・イラストレーションであった。
前作の『24人のビリー・ミリガン』を継ぐ訳であるから、
もちろん共通性を持たせながらも、新しい切り口を見せなければと考えていた。
前作のイラストレーションが具体的な解釈と描写に特徴があったので、
私としては、文中に出てくるモチーフのなかから幾つかをピック・アップし、
できるだけ象徴的に処理することを心掛けたのである。
それが″ ?印を描かれたどリーの写真とラガディ・アン人形”であり、″縄で縛られた扉と鳥″である。
収監された収容所の部屋の扉でありながら、どリー自身の心の扉であり、開け放しにしたり、
自ら扉に鎖するその心の様相を表わそうとしたのである。
また、ビリーの写真に?印を描かせたのも、虐待を受けた子供のときの自分を忘れたい、
抹消してしまいたいというビリーの分裂の根源を窺わせようとしたのであった。
言葉とイメージでは、その表現の方法は異なるしかないのだが、
言葉に縒り掛かることなく、
読者にイメージとして“ビリー・ミリガン ″を読み取ってもらえるように考えたのである。
 
ブルトンは自動記述の試みを文学、美術の枠を拡大させながら、
ついにはトロッキーヘの接近など政治そのものへも矛先を向けるのだが、
『シユルレアリスム宣言』のなかでこう記している
「…私は夢と現実という、外見はまるで相容れない二つの状態が、一種の絶対的現実、言ってよけ
れば一種の超現実のなかに、いつしか解消されてしまうことを信じる。
その征服こそは私の目指すところであって、
かならずそこへ到達できるとは思えないにしても……」 (厳谷国士訳)と。
〈教師〉とこの”超現実 ″は全く別のことなのは自明だが、現実のさまざまな側面が、
複雑に交錯しながら迫ってくるこの時代に、仕様がなく分裂していく我々の分身を、
もう一度、現実の世界のなかへと投げ返し、構築し直すためには、
ブルトンが意識と無意識を絶対的現実へと収赦させることを
目指したように、〈教師〉という、
世界を冷静に正確に凝視し続ける強靱な哲学が必要なのだと思われる。
割れてしまった鏡は、修復しなければならない。
そうして鏡の扉を越えて、その向こう側へと立ち入らなければ、
我々の世界への関係は、閉ざされたままなのである。
資料編纂係のコメント
90年代、ダニエル・キースなる作家の所謂多重人格を扱った読み物がベストセラーとして
次々に刊行されたらしい。 「アルジャーノンに花束を」「24人のビリー・ミリガン」「五番目のサリー」
そして主人が装幀した「ビリー・ミリガンと23の棺」。
このころを境に多重人格ものが書店のコーナーにもなって、著者のダニエル・キースが来日したり
相当に賑やかだったそうです。
「アルジャーノン・・・」は先日までTVドラマにもなったりで、
この辺の作品が未だ根強い人気があるようですが、 これは日本だけの現象なのでしょうか?
この原稿も、翻訳本とは別に「ダニエル・キース読本」という単行本として刊行 したものに執筆したものらしいです。
装幀した絵描きにまで依頼がある程ですから、
出版社として、ベストセラーの読者サービスとして考えていたのだと思います。
しかしここでも主人の持ち出すのはブルトンですからねぇー。
これが的を射たものなのかわたくしには見当つきませんけれど、
欧米での精神分析の下世話な浸透と は別な何かが、
日本にあることは確かなのでしょう。
心理捜査官という職種があるということや、猟奇的な事件の裏に
どうにかその暗部を探ろうと、心の中に網をめぐらしている捜査があるのを多くの読者が知ったのも事実。

でも、ハリスの「羊たちの沈黙」のずぅーと、ずぅーと前から、チャーンと在ったのにねぇー。



雑誌《EYES》
1996年12月 第8号
特集:アーティストとアートの30年

 今私が置かれている地点とは、いかにも把えどころの無い、
どのような枠組みからも宙に吊り下げられているような実に曖昧なところのようである。
〈現代美術〉、正に百花繚乱、様々な側面に支えられながら
意外と味け無い横顔を見せて忙しく回転している。
そんな中にあって確かな位置づけをしようとはさらさら思うつもりもない。
出来るものなら総ての領域と領域の境界線上で、
それこそ宙吊りのまま、〈現代美術〉 とやらにちょっかいを出したいぐらいのものだ。

 未だ自分自身の表現する主体も、そのための方法論も見えず、暗中模索の中にあり、
何の脈絡もなく周囲に散り散りになったままに在った私の好奇心・興味の対象が、
一つの軸を中心に螺旋に回転しながら、徐々に形を持ち始めたのが1970年。
軸とは渋澤龍彦であった。『夢の宇宙誌(コスモグラフイカ・ファンタステイカ)』『幻想の画廊から』
この二冊の書物を手にした時の驚きと喜びは今でも明確に思い出せる。
それ迄私の体の奥底に輪郭も定かにならないまま浮遊していた諸々の形象・事象が見事に一本の糸に
繋がり始めた感覚は、爽快であった。
無造作に置かれた鉄粉が、磁石に導かれて磁力の明確な形を作るように。
この出会いが決定的であり、羅針盤のように思え、
又、〈時代〉という時間の枠組みの呪縛からほんの少し解き放たれたようにも感じたのである。
それは同時に〈現代美術〉からほんの少し確実に距離を保とうとすることでもあった。

 70年代始めの私達の情況は、全共闘運動を筆頭に、
システムとしての社会(世界)への徹底的な疑問と、
それと知らずに支え持とうとする個そのものの見直しの中で、
熱い狂気と静かな虚無が渦巻く混沌であった。
芸術活動がこの混沌と無縁でいられる訳も無く、
システムへの疑問は画壇を含めた美術制度そのものの解体を、
そして個の見直しは、個の不確定性を明らかにする。
私達は何ものにも繋がっていない、価値感も、感覚も、氾濫する情報も、
すペてが断片として投げ出されているにすぎないということを明確に感じたのである。
だからこそ〈現代美術〉は、個と全体の関係そのものを回復しよう、
新しい時代の関係を築こうと、
今迄にない新しい発想、新しい技法に画材を武器に、
キャンバスの上で、そしてキャンバスから都市へと拡がっていったのである。
こうした情況の中で、
美術批評がどういう形で社会にアプローチしていたのかさっぱり記憶にないのだが、
渋澤、『迷宮としての世界』のホッケ、
『シェルレアリスム宣言』のブルトンの著作は、
美術の側からとは全く異なった、暗号を読み解く解読法一覧のように感じられた。
美術史が限定された時代、特定の地域の美学的様式の探求に終始し、
それを一本の時間軸にきれいに並びたて、その変遷を時刻表にしたとしても、
私達に何ものも感じさせないばかりか、美術が本来持ち得た大きなカさえも硬化させ、
形骸として眺めさせてしまうのである。
ブルトン、ホッケ、渋澤、この三者が企てたのは、
時間そのものを一つの通底器として把え、
時間も空間もその枠組みを解き放って、
全く異なった別種の引力圏を構想することで、
今迄の美術史の枠組みそのものを組み換え、
世界認識の新たな方法を呈示しようとしたのである。
芸術という特別な地平を、感情の在り方、行動の仕方、趣味、生活全般に渡って拡張させながら、
各々が様々に対応し、一つの磁場に収赦する。
そして思いもかけない形として立ち現れてくる。
断片と化した様々な形象、事象、感覚、性向、
一つ一つを蝶番で結びつけながら、
新たな全体を構想してゆく。
ホッケによって発見された〈マニエリスム〉が、
その後どれだけ私達に有効性を持つのかその時には考えもしなかったのだが、
それこそ直観としか言いようのない仕方で〈マニエリスム〉を深く取り込んだのだと思う。
 
  私自身は、鉛筆という画材を表現するための最初の工具として選んだ訳だが、
それは溢れる色彩の調和よりもとにかく明確な形象、
確固とした輪郭を持つイメージの定着にこそ自分の想像力が向かっていたからに他なく、
より正しい作画のためには尚、鉛筆の隠されたカの顕現を考えるしかなかった。
〈アルチザン〉という言葉で自分自身の方法をも規定しようとしたこともあった。
鉛筆という画材の〈原画材〉的性格から、技法の展開に限界もあり、
コラージュへ、オブジェへと手法を拡げ、画材もアクリル、混合技法、
金地テムペラと触手を伸ばしてきたのだが、
一貫して通底しているのは、
様々な物象による世界の組み換えであり、
隠喩、暗喩による象徴的言い換えであり、
イメージの喚起カによる視覚を通した〈謎〉の出現に立ち合うことであった。
シェルレアリスト達のコラージュ(視覚の物理学)、
オブジェ(詩想の物理学)、
デカルコマニー、
フロッタージュが単に造形上の美学的手法に終わることなく、
尚、衝撃的に美しいのは、物と物、物と空間、空間と空間、
それらが複雑に照応しながら磁力を生み、磁場を形成し、
私達に謎を投げかけてくるからである。
イメージとイメージが出会い、イマジネーションによって全く別のイメージが発生する、
眼の前の白い板こそが、時間も空間も超えてあらゆる物象が結合する場なのであり、
結合のための蝶番が想像力という魔術なのである。

 私は画廊等での作品の発表と並行しながら、書籍の装帳、装画、
果ては新聞連載小説の挿画まで含めて、言葉による世界と深く関わり続けていて、
その事態をさして〈現代美術〉の位置づけからも宙吊りのままの状態に置かれているようにも思えるのだが、
その場とは、小説にしろ、評論にしろ言葉による文学的想像力と、
視覚的・造型的想像力との緊張を強いられる解剖台なのであり、
文学と美術の境界線上に全く異なる世界を出現するための装置として考えられる。
錬金術の寓意囲も、博物学のイラストレーションも、
コミックもその境界線を繋げながら別の引力圏として構想し直せば、
そこにもマニエリスムの強力な世界構築としての方法が見えてくる筈である、
荒俣宏氏の奇書『想像力博物館』こそ、
視による分類、知による構築の見事に結実した驚異の箱、驚異の世界模型であった。
今も言葉の世界との共同作業は数多く試みられている筈だが、
各々の側からの批評、働きかけに終わって、
その境界線上に立ち現れる世界への言及はほとんどされていないのではないだろうか。

 〈人形〉
 〈変身〉
 〈螺旋〉
 〈解剖学〉
 〈暗号〉
  〈少年〉
 〈博物誌〉
 〈鉱物〉
 〈天使〉
 〈庭〉
 〈書物〉、
これは今迄の個展の鍵語だが、様々な方々に文章を寄せて頂いた。
しかし見事に美術の枠の外側に居られる方々が並ぶ。
美術という枠内だけで読んではもらいたくない、
美術との境界線上をうまく橋渡しされることによる磁力が、
磁力となるような言葉が欲しかったのである。
磁力とは蝶番であり、蝶番とは想像力であり、
新たな視点を導き出すためのパースペクティプの組み換えである。
 
 渋澤没後10年、『迷宮としての世界』から30年、ブルトン生誕100年、
硬化してしまった〈現代美術〉にはどうしてもこの三者の思考からの、
新しい、視の組み換えが今さらではあるが絶対に必要に思うのである。
高山さんの機関銃のような罵声が聞こえ始めてから、もう久しい。
                      (画家)
資料編纂係のコメント
洋書販売で名高い“丸善”が「世紀末に放つカタログ・マニフェスト」と題して、
“EYES”という冊子を不定期で発行しています。
今現在も続刊されているのか定かではありませんが、少なくとも10号は超えたと思われます。
中心で企画編集していたのは、あの高山宏氏です。
ということはそのテーマも、もっぱらマニエリスムを中心としたその周辺領域。
ということで主人の方に、原稿の依頼が来た訳です。
どうにも出来ない学生時代からの主人の歩みが
意外と解りやすく、要領よく記されているようですが、
澁澤、ホッケ、ブルトン、全く馬鹿のひとつ覚えみたいに繰り返しますねぇー。
2001年を過ぎて、所謂世紀末は終わった訳ですが、
果たして何かとんでもない、全く新しい何かが出現する予兆のようなものがあるのでしょうか。
わたくしにはなかなかその辺のところは難しい問題で、
主人が抱え込んでいる問題をどのように考えればよいのか、
答えを持ちません。
しかし、この冊子はなかなかに魅力的でございます。
バツクナンバーもストックがあるのではないでしょうか。
是非一度ご覧になって下さいませ。

雑誌《美術手帖》
1979年 9月号
特集イラストレーション=文化の図解


 イラストレーションの椀盤振舞の時代がやって釆てから久しい時が過ぎ、
もはや絵画とイラストレーションの違いがどうの、またまた、一点の作品を前に、
これが“絵画”だの、いや、″イラストレーション″だのと、
口角泡を飛ばすことも昔話となってしまった。
 それは、一片の鉱物をガラスケースの中に納めて、これは“岩石″であるか、
いや、これは一個の“標本″であるかを問うことと同じことであった。
ただ、つねに問題であったのは、その物が物自体として、
垂直に起立し得るか否かということである。
″イラストレーション″という名称は、エデイトリアル・ワークの中で、
その物をどのように扱うかにしか拠っていないのだから。
 その物は、その物としてしか在りようはない。
画家が″イラストレーション″を描き、イラストレーターが″絵画作品″をつくる、
それは私において判然としないのだが、ただ″イラストレーション″として
依頼される挿画、装釘画等を描く場合と、
依頼という形で私がとり囲まれない場合とでは、
自分の内部で、単純にかつ巧妙に使い分けのなされているのは確かなことである。
 私はかつて、新技法シリーズ『鉛筆で描く』(美術出版社)の
イラストレーションの項で、″書物の装釘″としてこう書いた。
「僕の場合、たとえば小説の挿画でいちばん気をつけねばと思っているのは、
決して小説を説明する挿画にはするまいということです。
小説が文章によって世界を凝縮=解放しているならば、
それに説明図でしかない挿画を添えることは、
小説作品に対してまったくの不遜といわねばならないでしょう。
このような制作態度は、怠惰であり、
まったく何事も起こすことのできない陳腐な精神というよりほかにはないと思われます。
小説に対して、それを抽象し行間の余白のド真中に、
小説と挿画が挨じ合わされて貫通する1本の捩釘として作用すべき
強靭な精神が絶対に必要なのです。」
 この考えは今も少しも変わらないし、多分、文章とイラストレーションとの関係は、
これからも変わらないだろうと思われる。
 そして、ここで重要であったのは、イラストレーションにおいてのことだけではなく、
私が私として物をつくってゆくことであり、
この一本の釘を頭蓋から肛門へと、
つねに貰き通しておかねばならないということである。
しかしながら、こうは書きながら、この夏の暑さのためか、
頭蓋の中はアルコールの粒子が飛びかい、
捩合わさるべき強靭な精神としての一本の釘は、
いつの間にか、夜の風に吹かれながらも星月夜の天蓋に向かい、
垂直に起立しているどこかの電信柱に、
情なくもたれかかる脆弱このうえない一本の肉柱なのではあった。

 願わくば、釘の穴をもってして、
宙空に釘刺される一条の鉄の光でありたいものを。          
資料編纂係のコメント
1979年ですから、主人30歳直前となります。
展覧会以外にイラストレーションの仕事を始めて6 ̄7年でしょうか。
どうも未だ気張っているという印象が強い文章です。
仕方ないのでしょうが、時代も時代だし、
その当時の美術は、所謂、現代美術全盛だったはずで、
《美術手帖》といえば、その先端にいた わけですから、
イラストレーションを特集するといつても、何か時代といったようなものの意味を探っていたのでしょう。
ただ、今、わたくしが読み返してもそぅー間違ったことを書いているようには思えないのです。
この生硬な文章が恥ずかしいですが・・・。
今もしこんな依頼があったら、多少は洒落たものを書いて頂かないと、お里が知れるというものですョネ。
資料編纂係 記(11/12)

雑誌《デザインの現場》
1988年2月号
VOL.5NO.25

 鉛筆に関する記述も、これで何回目だろうか。
仕事場には大小さまざまな鉛筆による作品が、知らないうちにけっこうな量になってしまった。
ぼくの人生の半分ちかくを、鉛筆を削ることに費やしていることになる。
現在入り込みつつある新しい仕事のことなど考えながら、もう一度、一本の六角形の中心に向かって手を伸ばそう。
さなざまな画材が、創意工夫を凝らして開発され、画材屋に一歩足を踏み入れれば、夥しい数の画材がならんでいる。

その数あるうちの一本の鉛筆。なぜ鉛筆か?なぜ鉛筆でなければならなかったか?
それは、けっきょくのところ、ぼくの精神の発露だったからである。
たしかに鉛筆は、受験時の、飽くことなき石膏デッサンのおかげで、もっとも手になじんでいたこともある。
それに他の画材といっても、自由に使いこなす技術も、どこを探してもぼくにはなかったのである。
とにもかくにも、ぼくの頭蓋のなかに旋回するミューズの夢の破片を拾い集めるには、
まず鉛筆しかありえなかったのだ。それでもまだ鉛筆は、鉛筆としてのありようには遠すぎる。
一本の六角形として垂直に勃起するには、
ぼくたちの少年時代をゆるやかに巡りながら、重ね合わさなければならない。
鉛筆とは、「少年」の望遠鏡だからである。
近くの崖から岩石を拾ってきては、鉱物図鑑を横に、細密に描き写してみる。
恐竜トリケラトプスを、人体解剖図を、空飛ぶ円盤を、ぼくたちの眼に映る物、
手に触れる物、自然界のあらゆる物象を、そして心の網膜に投影されるすべてのイマージュを、
モノクロームの図鑑のように頭蓋の博物館にピンで止めるとき、
ぼくたちの手にしていたものは、はかならぬ鉛筆でなければならなっかたのである。

このとき鉛筆は、物体と少年の感性を一点に収斂させる「精神」の別名であった。
黒鉛と粘土と軸木による三位一体のこの鉛筆からは、
ほのかにではあるが、たしかに「精神」という香りが立ち昇っていたのである。
鉛筆を「鉛筆画」という空間に投げ出すためには、
「少年」という抽象性、具体的な事物から、ある芳香を立ち昇らせる抽象性こそが必要であったし、
「少年」こそが、事物と精神とを通底させる、見えない望遠鏡そのものであったのである。

ぼくの使っている鉛筆を紹介しておこう。
ステッドラ−社の〈MARS LUMOGRAPH〉とホルダー式の〈MARS・S・TECNICO〉。
ほとんどがこれであるが、いま、それほどこだわっているわけではない。
国産の〈Hi Uni〉も〈MONO 100〉も、芯の滑らかさ、軸木のしなやかさ、ともに外国製の物より良質だともいえる。
ただ、これだけ多くのメーカーによる鉛筆が出ているのに、
国際的な基準が定められていないため、同じ硬度表示の物でも、その硬さにはかなり差異があるのが現状だ。
数種類の鉛筆を使ううちに、自分に合う物をひとつ決めることが安全だ。
ぼくの場合は、それが「ババァリアの鉛筆」という一点で、これにしているにすぎないが……。
LUMOと名前だけは残っているが、以前の物には、美しい三日月が箔押しされていたのも鉛筆にふさわしく、
うれしかった。鉛筆画という空間を拡げるためには、そのほかにもいくつかの用具が必要となってくる。
消しゴム、練りゴム、研芯器、布、羽根帚、定着液など。
これらの物も使いかたを変えるだけで、どのようにも姿を変える
(詳しくは、美術出版社の新技法シリーズ『鉛筆で描く』を参照していただきたい)。
要は、鉛筆と紙との狭間で進められる、ぼくたちの想像力の軌跡を正確に見出すために必要な物は、
あらゆる物が鉛筆画の道具として成立する、ということなのだ。
鉛筆には、いわゆる色彩の溢出など望むべくもないのだが、
明暗の微妙な諧調は、色彩とはまたちがった、硬質な光の輝きを生み出す。
色がないがゆえに、イマジネーションの明確さもより強く導き出されてくるのだ。
諧調のなかの幻視……。

こうして十五年間、鉛筆によって仕事を進めてきたわけだが、
二年前より、ある偶然から、油彩とテンペラの混合技法を学んでいる。
「ウィーン幻想派」のエルンスト・フックスに学んだイヌボオ・マリレさんの学校でだ。
以前より、友人にも混合技法の作家たちがかなりいて、興味はあったものの、
なかなか場をつくれずじまいだったのである。
十五年前、新宿のデパートで開催された「ウィーン幻想派展」は、ぼくたちにおおきなショックを与え、
いま日本で静かに拡がりつつある、混合技法の直接的な契機となったのであった。
鉛筆による十五年、「ウィーン幻想派展」から十五年。
奇妙に符合したこの時間は、ぼくに新しい地平を拡げるために不可欠だった。
漆黒から色彩までの諧調の長さのことだったようだ。
いまの段階で、混合技法について語れるなにものも持ち合わせていないが、
ただその最初の工程が、テンペラの白による浮き出しであること、
鉛筆画とはまったくの表裏であり、白という光の筆の描出というのが、
ぼくにとってなじみやすかった最大の理由といえる。
鉛筆が、陰影という負の光による描出であるからである。
陰影による光の出現。光による明確な輪郭。

「幻想」が明確な幾何学的精神によって見出されるものならば、
鉛筆も混合技法も、ぼくにとっては同じ場所へと収斂する二本の螺旋のように思えるのだ。
混合技法による豊かな色彩の深みを、いまだ表すことはできないながら、
鉛筆とは正反対の側面から、芳しく香りたつなにものかを把えられることを願うばかりだなのだ。
資料編纂係のコメント


雑誌《BRUTUS》1991年7/15
NO.253

_イタリア・フィレンツェ大学解剖学博物館を覗いた時の、
驚きと感動は何であろう。
哺乳類、甲殻類の解剖模型に始まり、
人体の詳細を極めた精密この上ない蝋細工になる夥しい数の模型。
イタリア旅行の最大の目的ではあったが、
この陳列室に一歩足を踏み入れた瞬間、ボッティチェリもカラヴァッジオもその印象を薄めたようだ。
解剖台の上に恍惚とした表情を浮かべながら身悶える女性が、
皮膚、筋肉、脂肪、内臓と一枚一枚剥がされながら暴かれていく様子は、
「どうぞ見てください」と願っているようでもあり、
視られることの苦痛と快びに震えているようでもあった。
体内に孕まれた暗黒を一枚の皮膚で被い隠す。
その内側を視られることを拒むもう一枚の麗しき皮膚。
肉体とは一個の暗黒の大陸であり、小さな宇宙であった。
そして一枚の皮膚とは、その小さな宇宙を収めるべき一個の箱である。


20年前の学生時代にも同質の感覚を味わった。
南画廊での加納光於『アララットの船あるいは空の蜜』を見た時だ。
さまざまに組み合わされたオブジェが木とガラスによる函の中に封印されているのだった。
さらに、その函の中には大岡信氏の『砂の嘴、まわる液体』
と題された詩集が内臓されていて、
詩を読むためには、函そのものを解体しなければならないのだという。
旧約創世記の中のノアは、神の言われたように、
全長300キュピトの糸杉の箱船を作り、
その中にすべての生き物、すべての肉なるものの雌雄の一対ずつを乗せ、
150日間洪水の波間に漂い、アララット山頂に座礁する。
この3階建ての箱船が世界の縮図、模型でなくしてなんであろう。
ここにあるのはたとえ、清らかなる選ばれた生き物であったとしても
〈世界〉そのものを内包し、再生させるための白昼の暗黒である。
ノアの箱船は糸杉とアスファルトで作られ、
加納光於の函は木とガラスによって作られる。
その違いはあるにしても、内側に〈世界〉そのものを孕ませながら
、我々の穢れた視線を拒み、また誘惑する「世界の容器としての皮膚」、
内側と外側を分かつ一枚の箱にほかならないのではないだろうか。
内側と外側、視ることの侵犯と快び。
解剖模型も、加納光於の箱も同じ構造を見せているのだ。


この空想の美術館の展示室に陳列されているどの一点を取り出してみても、〈世界(宇宙)〉そのものを内包し、
表面を一枚の皮膜で素敵に被い隠している。
我々の眼にする一個の物象が光り輝きながら呼びかけてくる時、
我々はそこに世界の縮図、
ミニアチュールの象徴を探り当てているのではあるまいか。
〈世界〉という混沌を、形象という磁場へと、
螺旋を軌跡しながら一点に収斂させ、秩序づけるもの。


これがこの展示室に貼付されるべきラベルである。




●加納光於
 この箱の中には、作品の制作ノートが、蜜蝋で封印されて納められているという。詩集が〈世界〉であるのと同じように、このノートには箱船という世界模型の秘密の制作日記も含まれているのだろう。ノアが内側と外側とを解き放たたせるために一羽の鳩を小窓から飛び立たせたように、 この箱も一本のドライバーという鳩を廻しながら、解体されるのだろうか。

●解剖図
 解剖学に於ける図解の方法はレオナルド・ダ・ビィンチに始まるという。眼玉の人間レオナルドが、人間の内側の驚異に向かわないはずがない。物象の根源である抽象的なイデアを探るプラトン学派とは反対に、様々な物象それ自体への探求を実践していたのだ。膨大なスケッチがそれを証明している。しかし、その眼球を通して、大宇宙と人間という小宇宙の 〈イデア原理〉をどこかで直観していたに違いない。

●解剖模型
 これほど夥しい数、これほど精緻を極めたものだとは想像もしていなかった。解剖学博物館にはこのほかにも、同じ蝋細工で作られた黒死病の風景模型やら、胎児の詳細な成育過程やら、生あるものすべてを模してしまおうという、神の箱庭の模型職人の驚くべき熱が、冷え冷えとした館内に充満しているのだった。内側と外側、視ることの侵犯と快楽、視られることの禁止と苦痛がガラスケースの中に暴露されている。

●デュシャン
 デュシャンは「1914年の箱」以来沢山の刺激に満ちた箱を作っている。 レディメードに始まるオブジェ概念はデュシャンが発明したものであり、現代芸術に多く視られる箱作品の先駆もまたデュシャンだった。この「トランクの箱」はデュシャンの作品のコンパクトな個人美術館であり、デュシャンの痕跡のミニアチュールである。内側には「大ガラス」も、「階段を下りる裸体」も、「泉」さえもが縮小されて模型として納められている。デュシャンそのものをトランクに詰めて、もう一人のデュシャンが街をゆく。
●コーネル
 オブジェのことを「思想の物理学」と銘打ったのはポール・エリュアールだったろうか。凝縮された空間と時間がひとつひとつの物体に結晶化してゆく。この木箱の内側には、訪れ来るべきものである〈詩〉の飛び去った後の、記憶だけがピンで留められたように動かない。コーネルのこの箱たちは、ガラスの皮膚を透かして一瞬間でありながら永遠であり、限られた空間でありながら無限の広がりを見せる。

●卵
 この楕円形をした美しい形象。これほど最も象徴的に、内側と外側を我々に見せてくれるものはない。何物も奪い取られることもなく、また、ここに何物も付け加えることの出来ない完全な小宇宙がここに在る。混沌をその内に内包し、美しい殻によって秩序づける。容器(皮膚)としての殻を破ることによって時間そのものが始まる。〈世界〉のミニアチュールの完璧なオブジェが卵である。


鉱物票本箱
 「ボール紙の馬に跨って寂光の都へと逃げてゆき、あゝ鉱物になりたいと白状する」この一行に始まる稲垣足穂の「水晶物語」は、少年が鉱物標本を戸棚の抽斗の中に創りだすことによって〈世界〉を初めて形象化しようとする話だが、抽斗の中にラベルを貼付された鉱物達の光り輝く美しさはどうであろう。時間と空間の結晶体、水晶。容器としての標本戸棚。もっとも足穂は図版のような鉱物標本を「その辺の洟たらしが持っている見本ではないか!」と主人公に言わせてはいるが。

●時計
 時計、この小さな機械に我々は宇宙の模型を視る。夥しい数の歯車の精巧な構造、互いの円運動を月の満ち欠けに、星辰の運航にと、天体の航跡に模しながら文字盤の上に時を巡らす。「はるかなる星の座に咲く花ありと昼日中時計の機械覗くも」(前川佐美雄)

●さざえ堂
 正式には、園通三匝堂という。右巻き上がりに螺旋の構造をとりつつ、三十三観音を拝する。観音という内蔵物を螺旋階段の容器が被う。観音という実体を視ずとも、螺旋の容器を巡ることで、我々は天へと通底することが出来る。

●ファルネーゼ宮(カプラローラの)
 眼をつむって静かに身体の内部をのぞき見る時、きまって螺旋に昇降する幾筋もの光の渦が見えてくる。このファルネーゼ宮の螺旋階段をホッケの「迷宮としての世界」に発見した夜、この二つの螺旋が完全に交感するのを感じた。宮殿の壁は一枚の皮膚に、柱は骨格に。その内側に渦巻きながら徐々に形を成してくるもの。指紋の渦、DNAのスパイラル、そして宇宙の渦巻き。螺旋の神秘的な形象と力は、肉体という小宇宙と大宇宙をつなぐ鍵であり、紋章である。

●柘榴
 柘榴を果物として口にしたいとはそれほど思わないが、初夏、たわわに実った柘榴を眼にすると、人間が樹に実るというワクワクの樹のように惹きつけられる。机の上に置かれた一つの柘榴が少しずつ割れながら深紅色の内側を見せ始める時も、視線を拒絶しながら誘惑する構図が見える。ディオニュソスの流した血液から生まれたこの果実もまた、内に死と再生のドラマを渦巻かせながら、以外に堅い表皮に包まれて、じっと静かに震えている。

●自然科学博物館
 我々が子供心にもっとも心惹かれた建物は、上野の科学博物館である。そこには植物から生物、鉱物、ミイラに機械、自然が生み出したあらゆるオブジェが整然と並べられていた。時間が停止したようにガラスケースの中で動かない様々な標本・剥製。そしてそのすべてをすっぽりと包み込む冷たい円蓋。館内に入らずとも、館の中に静かに列ぶ標本を想うとじっと掌に汗をかく。

●ダリ
 私を美術に向かわせたのは、セザンヌでもない、レンブラントでもない、ダリであつた。正確なパースペクティブを持つ時間の停止したような風景の中で展開される堅牢さと柔軟さの せめぎ合い。ダリは自分の絵画を「麻痺的イメージのカラー写真である」と記している。この作品を選んだ理由は「海の皮膚」という美しい言葉にある。少女の持つ一枚の海の皮膚、その内側に眠り続ける在るもの。岩の周りに拡がる皮膚の波紋。ここにも内側を被う麗しい容器が見える。

●書物
無人島に一人でゆく時に手にするべき一冊の書物は何か?という質問に「広辞苑」と答える人は果たして今どれだけいるだろう。今なら、一枚のディスクに綺麗におさまってしまう恐ろしさ。辞典が、言葉による〈知〉の体系である以上、ここに在るのは〈世界〉の総体の様々な様相である。そして〈世界〉を包む柔らかいゴート革の表紙。書物とは内側を読みとると同時に、書物の皮膚である表紙の手触りである。





■■■■資料編纂係のコメント■■■■

 雑誌〈BRUTUS〉で“空想美術館”というタイトルの連載が、毎回そのキュレーターを変えながら続いていたそうです。
〈BRUTUS〉では時々イラストレーションの仕事をしていたそうですが、こんな企画に選ばれたのが面白かったそうです。
主人が未だ大学の頃、友人と美術史の本を見ながら、
どの画家が好きか、どんな彫刻に惹かれるかとそれこそ古代から現代に至るまで、チェックしたことがあつたそうです。
多分面白半分にしていたに違いないと想いますが、以外と、重要なことを知らずに行っていたのではないかとも、
わたくしには思えたりします 。だってこれって、自分がどんな感覚を持っているか、
どんなものを作りたいと想っているかの総合的なテストになっているじゃないですか?
時代も場所も関係なく、自分という液体がどこの穴へと通底するかが、一目瞭然で解るって言うモンじゃないですか。
“空想美術館”って言うタイトルは、名前を忘れてしまいましたけど、
フランスの高名な評論家、文化相とかもおやりになった日本通の、なんだっけなぁー、
まぁーいいか、アとかモとかが付く名前の人が、もし美術館を作るとしたら、何を収蔵するかというところから、
この名前を考えた、という話だと思います。
今の若い人たちって勉強しないらしく、画家とか芸術家の名前を知らないらしいんですよね。
知識として知っていればよいと言う訳じゃないですけど、
何か作ろうとしているんなら、そのくらい自分で勉強したらって言いたくなってしまいますわ。
五月商会の主人の不勉強ぶりも気になりますが、
今時のガキって、何なのかしら。(怒)
資料編纂係 記(10/30)


季刊デザイン1973年AUTUMN

 私の机の上にまるで死骸のように折り重なって、鉛筆が横たわっている。
ここ数年間の内に、透明なガラス箱のなかに埋葬された鉛筆の数は、夥しい数にのぼる。
“早すぎた埋葬”にあった鉛筆もかなりであろう。それらは別の用途に用いられたようだが・・・。

 未だに“鉛筆 ”それ自体のことを考えたことはないが、あのダイヤモンドと同じ元素で出来た黒鉛を、
軽やかに美しい軸木で包み、その上に洒落たアルファベットを銀文字で押した六角形の鉛筆は、
私の“中心”のように美しい。鉛筆は精神の香りがする。

 私が紙の上で五本の指を 動かした時、その忠実な弟子は鉛筆であった。鉛筆と言うより、色を持たない美しい六角柱であった。
自分自身の色に対する感受性が鈍かったのかも知れないが、私の描こうとするものに色彩は必要ではないように思われた。
それが徐々に高じて、もはや、漆黒の中でしか、私の絵は肉体を持たないだろうとさえ思われた。
易々と色の悦びにうつつを抜かすことなどには訣別し、自分自身を暗闇の牢獄に幽閉し、
全き禁欲の内に、鉱物になろう、黄昏れる地平の淵に結晶する塔であろうと告白したのだが、
第一の封印を解いて、黄金色が忽然と出現し始めた。
 
  秋の夜半に、窓から冷ややかな風がイオのように忍び入る頃、私はいつの間にか夢のうちにあった。
黒ずくめの刑吏が私を石像の地下室へと連れてゆく。地下室の隅には、異様に大きな胴体を持つ鋼鉄製の人形が据えられている。
一瞬、胴体が観音開きに開くやいなや、私はその内側に押し込められてしまった。
人形の内壁には、削りあげられた夥しい数の鉛筆が、私の身体めがけて、一斉に突き刺さらんばかりである。
その鉛筆達は、“早すぎた埋葬”にふされたものであった。これは中世の“鉄の処女”を真似た、何と、“鉛筆の処女”だつたのである。
その一本が眼球突き刺さる一瞬、私は目醒めた。相変わらず、ベッドのうえのヘリオトロープは、仄かな香りを漂わせているが、
枕の傍らには、夢の記述のためのステッドラーの鉛筆が、異様に青く、ババリアの瞳のように、私に向かっていた。

  私は漆黒の流れに、あらゆる色彩の乱舞を押し流してしまうことが、修道士にも似た禁欲であると思っていた愚かななる誤りに気づいた。
漆黒の洪水に身を委ね、密やかなる至福を奪い取っていたのは、誰あろう自分自身ではなかったか。
嗚呼、鉛筆の処女、夢の刑罰。


資料編纂係のコメント

1973年美術出版社の雑誌<季刊デザイン>秋号に、「三本の黒い鉛筆」と題して巻頭特集が組まれています。
'73年と言うことは、主人こと建石修志が23歳という計算になるわけです。三本の鉛筆、片山健、篠原勝之、それと建石です。
今では鉛筆画というのもそう珍しくはないようですけれど、当時は70年代という特殊な状況の中で、
かなり異質な印象を持たれたようです。「原点である画材に戻る・・・」といった側面から評価する方もいらっしゃったようです。
しかしこの文章なんでしょう?
なんだか勿体ぶった、そのくせ何も言ってないような 、稚拙な文章。
 わたくし別に国文科卒業じゃありませんけど、今だったら、中学生の小生意気なニキビ面さえ書かないような、
わたくし書き写していて、鳥肌たっちゃうような恥ずかしい気持ちになってしまいます。(アララ、また言っちゃった。失礼しました)
それにしても、片山氏、篠原氏、それぞれ別の領域でご活躍されているのを、眼にいたしますが、
なんだか建石だけこのままのようで、代わり映えしませんねぇー。
まぁー雇われている身で、こんなこと言ってちゃいけないかしら。リストラされたら困るしなぁー。
(資料編纂係 記 )●9/16

山形新聞1985年11月
筆とは一体何であったか。
僕たちが初めて鉛筆を手にしたのは、いつのことだったろうか。
まだ自我に目覚めることもない幼い一個の無垢の時だったろうか。
自分を取り囲むすべての空間が画面としてあった時だったろうか。
黒板の数式をノートに書き写す時だろうか。
それとも、毎日毎日、飽きもせず石膏を描いていた受験の時だったろうか。

かに僕たちの周りには、いつの時代も鉛筆はころがっていたし、
最も手軽な筆記用具として、常に鞄の中に横になっていた。
しかし本来的な意味において、正しく鉛筆を手にしていたのは、あの「少年」だけである。
少年が持つことによってのみ、鉛筆は鉛筆としての存在意味を最も明らかに出来たのであり、
一本の直立する輝かしいオブジェと成り得たのである。
鉛筆とは、一本の勃起する少年である。
鉱物図鑑を開きながら、方解石を書き写す。見知らぬ国の迷宮のような市街を想い正確な透視法で線を引く。
謎の飛行物体に輪郭をつける。解剖図から肋骨を抽出する。
ノートの上のあり得ない国家の詳細な歴史を作り出す…。
その時の僕たちの手に握られているのは、ペンでもなく、筆でもなく、鉛筆であった。
それ以外ではあり得なかった。
僕たちは、手に触れる物、眼に入る物、あらゆる興味の対象を、一本の鋭く尖った鉛筆によって、
頭蓋の中の博物館のケースの中に定着していたのである。

れるような色彩の洪水の中にあっても、
僕たちは、色の持つ曖昧さから遠くに離れて、物が醸し出す厳粛な気配を感じていたのだ。
僕たちの眼を通して、感性を通して、頭蓋のスクリーンに投影されるあらゆる事象は、
色を持たないビジョンである。
と同時に、すべての色彩を秘める黒から白までの、光と影による世界認識のための小さな破片である。
少年とは、小さな破片を拾い集めては巨大な宇宙儀を試作する、硬度計のような幻視者である。
その時鉛筆は、物体と少年を捩じ合わせながら、一点に収斂させる「精神」の別名に他ならない。
黒鉛と粘土と軸木の三位一体から成る一本の鉛筆は微かな、しかし確かな精神の香りを漂わせているのである。
「精神」とは「在る」と「無い」との中間に、ふいに起立してくる物の気配である。
僕たちは時間を延々と食べ続けてゆくうちに、脂肪の浮き出る青年へと変貌し、
それと同時に、鉛筆を遠くへ押しやってしまう。
代わりに万年筆を握りしめては、勤勉に時代の学習に追われる。
かつての広大な視界に想いを馳せることもないのだ。

かし、自分の中の「少年」の生存に気付きさえすれば、
鉛筆はまた、微かな香りをふりまきながら、輝かしく登場してくるのであり、
その時鉛筆は明確に「画材」としての武装を完了させて、
世界に対峙するための、以前よりもより尊い精神性に裏打ちされているのだ。

筆画とは、
この地平に立つことで初めて成立するのであり、
黒鉛と粘土と軸木の三位一体から、物と精神と手による三位一体へと構図を変えることにより、
鉛筆画の技法もまた、さまざまなバリエーションを展開出来るのである。
鉛筆は、記憶の中に埋もれた始点である。
これまで鉛筆画は、油彩、フレスコ、テンペラ、日本画とさまざまな技法のある中で、
作品の下絵的な物としてしか受けとられていなかったが、
意識化された一本の鉛筆が、
硬質で透明な世界を明確に形作るのを身を持って知るならば、
画材と技法による無意味なヒエラルキーも自然に氷解してしまうだろう。
まだまだ鉛筆が隠し持っている世界の構築のための可能性は、
僕たちの怠惰な感性によって多くを眠らせたままであろうが、
少なくとも鉛筆の持つ原型的画材の意味を改めて確認することが出来たら、
僕たちは幻視者となるための、確実な一つの方法を手にしたことになる。

筆は、あらゆる時間を通底させては、
それ自体、時代という檻にも無縁なのである。
事象からの抽象こそが「少年」の男性原理たる所以であり、
鉛筆は、光と影の溶け合うあわいに、少年を正確に輪郭する「気配」の定着機なのである。


資料編纂係のコメント
これは1985年とありますから、主人 35歳ということになります。
まだこの時点では作品も、装幀の仕事も鉛筆一本でされていたはずですから、12 ̄3年鉛筆だけを頼りに生活していたわけで、
鉛筆に対する思い入れも尋常ではなかったのでしょう。
それを考えれば、この何とも生硬で堅苦しい文章も、多少微笑ましくも見えてくるようです。
前記の「黒鉛の・・・」の文章から見れば、大分鉛筆そのものをどう考えるかと言うことが、
整理され、明確になっているように思われます。
でもこれが山形新聞の夕刊に掲載され、一般読者がどういう想いで読んだのかを思い浮かべると、
自分のことではないにもかかわらず、冷や汗が少しばかり流れてしまいます。
この数年後から、油彩とテムペラの混合技法へと広がりを見せるわけですが、
<何を描くかという問題は画材と技法との関係の中にある>ということに気付くまでには、まだ多少時間が掛かるようです。
絵描きでもないわたくしが何を偉そうにと思われるかも知れませんが、
資料編蚕室の中で、毎日主人の作品や、書き散らした下絵、諸々の資料などに囲まれていると、
自ずと、何を考えていたのかが見えてくるように思います。
わたくしもこれを機会に鉛筆画でも習ってみようかしら。
主人は幾つかカルチャースクールで教えているようだし・・・。
でも何だか教え方がとんでもなくヘタなような気がするけど・・・。
(資料編纂係 記) 10/1


月刊“彷書月刊”1992年4月号〜6月号

■言葉の雫■
昨年の春に公開されたセルゲイ・パラジャーノフの映画「ざくろの色」は、
その色といい、そのイメージといい、実に刺激的な作品であった。
その冒頭に、雨に濡れた夥しい数の書物を、屋根に干す場面があった。
草原を亙る心地よい風がその書物の一頁一頁をパラパラと繰っていく。
抱えるほどの大きさの本が重ねられ、その重みでポタポタと雫が落ちる。
画面には、「………ペンと文字と書物を愛せ、書物は大切にして、大事に読むのだ。書物は魂であり、生命なのだから………」と字幕が重なる。
何冊もの大きな書物から、次から次へと滴り落ちるその一つ一つに言葉包み込まれていて、
大地に吸い込まれ、そして又、新しい世界を再生して行く。
風に浮き上がった言葉が、薫りのように草原に漂っている。
この一場面だけでもパラジャーノフに魅かれてしまう。
「ざくろの色」はアルメニアの詩人サヤト・ノヴァへのオマ−ジュとして撮られたとあるが、
パラジャーノフの書物への愛が美しく伝わってくる。

一昔前のアンケートに「無人島に漂着した時手にする一冊の書物は何か」というのがよくあったものだが、
かなりの数の人が“広辞苑”を挙げていた。
一冊の書物が“世界”の言い換えであるなら、
言葉によるこれほど明確な世界模型はあり得るはずもなく、その回答にも納得がゆく。
その広辞苑も今は、十センチ四方、厚さ二ミリ程のディスク一枚に収まってしまうというのも、なんとも味気無い。
言葉が画面から誤って消去されてしまうことはあるだろうが、
言葉が雫となって大地に吸い込まれていくという美しい詩のような情景からは、遥かに遠い。

言葉とは魂であり、書物とは器であり、体である。

■燃える言葉■
書物が言葉によって構築された一つの世界の器であるのなら、
膨大な量の書物を壁という壁、棚という棚に整然と並べ、
内包している図書館というものは、文字どうり“”として“世界”を包み込んでいるのである。
一冊の書物を思い浮かべると、自然と図書館という量の書物を連想してしまう。
ウンベルト・エーコ原作、ジャン・ジャック・アノー監督の映画「薔薇の名前」が公開されたのはもう五・六年前になるだろうか。
中世の北イタリアの忠実な再現も見事なら、
修道士の奇怪な相貌も又、我々の眼を恐ろしく、楽しませてくれもしたのだが、
何と言っても圧巻は、文書館の錯綜しためくるめくような迷宮であり、文書館炎上の場面であった。
ビラネージの牢獄をそのままのしたような、それは知を巡る迷宮の見事な形象化であった。
原作は未読のままの体たらくではあるが、私には文書館の場面だけでも充分であった。
言葉が我々の世界の発動者であり“世界”そのものであるなら、
文書館という聖域に禁断の知恵の実である書物を秘匿し、管理保存する者とは、
言葉を支配し“世界そのもの”を掌中にしようとする者のことであるはずだ。
だが、その文書館長が盲目とは何と象徴的なのだろう。
言葉そのものを目にすることは不可能だが、書物は見、かつ読むことによってそこに在るのだから………。

文書館炎上は、牢獄に囚われた言葉たちの解放と、新しい組み替えによる再生を、哀しくも美しくイメージさせてくれる。

■書物の皮膚■
言葉がであり、書物がその魂を包み込む器であり、であるなら、
装丁の作業とはその体の一枚の皮膜、一枚の皮膚を作り上げることなのかもしれない。
それも文字と絵柄と色彩による美しい刺青を施して………。
私は決してブックデザイナーではないのだが、それでもこれまでに二百冊余りの書物の装丁を手掛けている。
今でも年に数冊は装丁の仕事をしている。
デザインを考え、装画を描き、文字指定をし、紙見本から紙を選び、版下原稿を作る。
版下を作成させて初めて一冊の書物の全体像が浮かび上がる。
ただ私の場合、
編集者に希望されるのはどのような雰囲気の、どのような絵柄が欲しいと言った“絵”に関することがほとんどで、
文字、紙質については、コストの面で余り高くなり過ぎないように、と言った程度である。
確かに膨大な量の書物が刊行され、書店の書棚に並ぶのであれば、
少しでもその一冊が目立つようにと願うのももっともなことなのだが、
未だに私には、書物の持つ独特の“手触り”が欲しくなってしまう。
しっとりとしたモロッコ革のコ−ネル装であろうが、
艶やかな絹装であろうが、和紙でもアート紙でも、書物が我々につながって来るのはまず、
掌にのせたときの手触り、書物を包み込んだ薄い一枚の皮膚の手触りからではないだろうか。

目に見えぬ言葉を文字が形象化し、文字の築いた一個の裸体を、半透明の膜で被う。
一つ一つの文字自体は書物の一ミリ外にも出ることは出来ないが、
読まれることによって初めて、言葉は書物という体から我々に浸透して来るのである。

装丁とは、整然と並べられた文字たちを眼と掌を通して我々の体へと通底させる為の、柔らかな装置なのである。


★資料編纂係のコメント★ 

1992年と言うことは 、主人42歳となりますか。多少は文章が読み易くはなっています。当然ですよね。
それにブツクデザイナーではないと記していますが、この時点で200冊あまりの装幀をしているわけですから、
本に対しての考えも、少しは見えてこなければ、ただの絵描きの“余技”のようなもので終わってしましますものね。
魂、身体、皮膚、別に新しくもないけれど、ちょっとロマンティックじゃないかしら。
最近でこそブックデザイナー、装幀家と組んで仕事をすることが多いようですが、
主人は結構版下を作るのが好きなようです。それも写植文字を切り貼りするのが・・・。
このアナログさが何ともわたくしには解りかねるところなんですが。
ま、アルチザンに憧れていたというぐらいですから、気持ちは解らないでもないのですが、
今時コンピューターをいじれないなんて、やっぱりチョットネーというかんじ。
現在のところ、全集ものとかも含めると400冊は軽く超える仕事があるようです。
五月商会のHPの《書物の衣裳》にリストがあるようですが、誰がリストアップしたのか存じませんが、
結構抜け落ちているのが目につきます。
主人の記憶が頼りな訳ですから、都合の悪いものは・・(あぁー、なるほどねぇー)・笑い。

(資料編纂係 記)10/02

 

■■back■■


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